タシュケント
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タシュケントは、ウズベキスタンの首都。ウズベキスタン北東部、シルダリア川の支流であるチルチク川の流域に位置する歴史的なオアシス都市。人口はおよそ200万人で、中央アジア最大の都市である。
気候は地中海性気候。夏の暑さと乾燥は厳しいが、冬は雨が多く寒さもそれほど厳しくない。
都市名はテュルク語で「石の町」現代ウズベク語表記は Toshkent、ロシア語表記はТашкент (Tashkent)。ペルシア語表記ではتاشكند (Tāshkand)。「タシケント」と表記されることも多い。
[編集] 歴史
タシュケントはソグド語での古名をチャーチュ(c'c : Čāč)、またはチャーチュカンドともいい、ペルシア語でもチャーチュ( چاچ Chāch)と称し、アラビア語ではシャーシュ( شاش Shāsh)と呼ばれた。チルチク川の形作るタシュケント・オアシスの主邑として、またカザフ草原・天山山脈北麓の遊牧地帯とトランスオクシアナのオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄した。
国際交易では中国にまで名を知られ、後漢書以来石国と呼ばれた。また「チャーチュ」の音写として「者舌」(魏書)や隋唐時代の「柘支」、玄奘三蔵の大唐西域記では「赭時」と書かれた。ソグド人が中国地域で用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を名乗った。750年には唐の将軍高仙芝が石国に侵攻したためにシャーシュ(チャーチュ)はイスラム帝国に支援を求め、タラス河畔の戦いのきっかけをつくった。その後、さまざまなイスラム王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民のイスラム化・テュルク化が進展した。10世紀末頃から「タシュケント」と呼ばれるようになった。モンゴル帝国時代にはペルシア語の「チャーチュ」やアラビア語の「シャーシュ」で呼ばれるのが一般的であったようだが、ムガル朝の始祖バーブルは自伝である『バーブル・ナーマ』において「タシュケンドは書物には『シャーシュ』または『チャーチュ』と書かれて」いると述べており、彼が中央アジアで活躍した16世紀頃には既に「タシュケント」の方がティムール朝の王族たちなどではより一般化していたらしいことが伺える。都市の名前が「チャーチュ(シャーシュ)」から「タシュケント」へ変化した原因は、恐らく「チャーチュ」の音写に由来する「石国」をウイグル地方などのテュルク語で直訳した形だと思われるが、これが現地でも使われるようになったのはウイグル地方とマーワラーアンナフル双方を領有していたチャガタイ・ウルスの影響が考えられる。16世紀には18世紀にはコーカンド・ハン国の支配下に入った。
19世紀の半ばに入るとロシア帝国がコーカンド・ハン国を征服し、ロシアの直轄領に組み入れられたタシュケントには1867年にトルキスタン総督府が設置されてロシアの中央アジア支配の拠点となった。ロシアは旧市街の外側にロシア人の住むヨーロッパ的な町並みの新市街をつくり、中央アジア経済の中心都市としても発展した。
ロシア革命を経て1924年にウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、その首都となった。
[編集] 姉妹都市
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