ターザン後藤
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ターザン後藤 | |
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プロフィール | |
リングネーム | ターザン後藤 (ターザンごとう) |
本名 | 後藤政二 (ごとう せいじ) |
ニックネーム | 鬼神 |
身長 | 178cm |
体重 | 150kg |
誕生日 | 1963年8月16日 |
出身地 | 静岡県島田市 |
所属 | ターザン後藤一派 |
デビュー | 1981年2月19日 |
ターザン後藤(ターザンごとう、1963年8月16日 - )は、元大相撲力士、現プロレスラーである。本名:後藤政二(ごとう せいじ)。静岡県島田市出身。
目次 |
[編集] 経歴
1979年に九重部屋に入門する。1980年に力士を廃業し、全日本プロレスに入門。
1981年2月19日、福島県霊山町民体育館の越中詩郎戦でデビュー。1983年にプロレス大賞新人賞を受賞する。
1985年に海外遠征し、ベトナム人レスラー『ホー・チー・ウィン』のリングネームで活動した。遠征中に女子プロレスラーのデスピナ・マンタガスと知り合い結婚している。海外遠征に出るも帰国命令がなく、そのまま現地に定着(帰国命令が無かった理由は、全日本プロレスからは後藤は現地で結婚して引退し、そのままアメリカに定住していたと思われていたとの説がある)。上がるリングを失くして調理師をして生活していた時期もある(その頃、働いていたレストランに武藤敬司と坂口征二が来店し、自分の置かれている状況を情けなく思い、会えなかったと後に語っている)。
遠征中の1989年に大仁田厚から誘われ(最初に大仁田から連絡が来た時に、ジャンボ鶴田から電話がかかってきたと勘違いしている)、全日本プロレスを退団しFMWの旗揚げに参加。全日本プロレス退団前にはケジメとしてジャイアント馬場にFMWに移籍する旨を伝え、正式に認められている。同年12月には、後楽園ホール興行にて大仁田と組み、松永光弘、ジェリー・ブレネマン相手に日本初の有刺鉄線デスマッチを戦った。
1990年初頭に開催された総合格闘技オープントーナメント(総合格闘技と銘打っているが、内容はプロレス)では、準決勝で大仁田を破る金星を上げたものの、決勝で元新日本プロレスの栗栖正伸に敗れ、準優勝の成績を残す。同年8月4日、汐留大会にて大仁田と史上初のノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチを行い、この試合がプロレス大賞年間最高試合賞を受賞。爆薬を使った視覚的インパクトの強い試合は週刊プロレス、週刊ゴング等、プロレス誌の表紙をも独占した。
1991年、インディー団体としては破格のビッグマッチである川崎球場大会のメインイベントで再び大仁田とノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチで戦い、3万人を超える大観衆を集めた。このあたりから「鬼神」というニックネームも定着し、地味ながら安定した実力を見せる後藤はFMWファンの強い信頼を受けるようになる。暮れに行われた総合格闘技タッグリーグ戦には、大仁田と組んで参加。東京ベイNKホールでの決勝戦で、柔道家のグレゴリー・べリチェフ、コバ・クルタニーゼ組を破り、優勝。世界マーシャルアーツタッグ選手権の初代王者となる。
1992年1月。大阪でビッグ・タイトンを破り、世界マーシャルアーツ選手権を奪取。これが後藤の日本での初のタイトルとなったが、3月には元ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのレオン・スピンクスに敗れ、タイトルを失った。
1994年、WAR両国国技館大会にて大仁田と組み、天龍源一郎・阿修羅・原組と闘い、この試合で2度目のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞。
1995年、大仁田の引退試合の対戦相手に決まっていたが、直前にミスター雁之助、フライングキッド市原を率いてFMWを離脱する。この時、舞台の裏側で何があったのかは関係者がいずれも口を固く閉ざし、今もはっきりした原因は知られていない。FMW離脱後の後藤らの行動は早かった。真FMWを名乗り、IWA・JAPANの後楽園大会に乱入。FMWで自らデビュー戦の相手を務めた中牧昭二らとの抗争に突入する。同年8月、川崎球場においてダン・スバーンのNWA世界ヘビー級王座に挑戦し、好勝負を展開するも敗れる。
この頃、アルティメット・ファイティング(UFC)で日本人格闘家が敗退し続けていた為に、自分がUFCに出ると宣言していたが、UFCから「デスマッチ等の危険な試合が多いから」という理由で拒否される(実際の拒否理由は不明。この事で、漫画家の花くまゆうさくは自身のコラムで「初めてアルティメットの呪縛から逃れたレスラー」と書いている)。
1996年、第一回メモリアル力道山興行に登場した際には、メジャー団体の象徴とも言える長州力が、後藤を評価する発言を行う。同年、インディー統一機構を名乗るFFFに冬木軍、折原昌夫らとともに参加するも同団体は旗揚げ戦前に倒産。
1997年には、WARマットを中心に暴れまわり、武井社長がプロレスデビューした6月の後楽園でも対戦相手を務めた。7月の両国大会では、天龍のデビュー20周年試合としてメインイベントで一騎打ち。多くのファンは両者の真っ向からの激突に期待したが、後藤は天龍のリングシューズを脱がしにかかるなど、姑息な反則攻撃に終始。以降、後藤の表舞台での活躍は減っていく。この数年間に渡って自らが座長を務める真FMWも、R2W、革真浪士団、ターザン後藤一派と衣替えを繰り返した。この頃、冬木弘道の発案でFMWに出場が計画されたが、所属選手達の猛反対と、後藤本人も拒否し、後藤のFMW再登場は幻となっている。
2001年には全日本プロレスに約16年ぶりに参戦した。2002年、道場兼プロレス会場の春日部インディーズアリーナを設立。同年10月の全日本プロレス日本武道館大会では、本間朋晃とタッグを結成し、テリー・ファンク、アブドーラ・ザ・ブッチャーと戦う。
2005年には四冠王者(当時)の小島聡までもがターザン後藤一派の清水大会に参戦し、後藤とタッグマッチで対戦。2006年には、浅草にインディーズアリーナを再興。「浅草ファイト倶楽部」という店としても営業しており、プロレスを見ながら飲んだり食べたりできる店として、インディーファンを楽しませている。特にちゃんこ鍋を注文すると、自ら調理をするという念の入れ様である。自らの団体での活動と平行して、全日本プロレスから分派した新団体キングスロードの旗揚げ戦に参戦するも、後楽園ホールでの旗揚げ戦では怪我のためか、影武者に試合をさせ、自らは場外乱闘に終始。王道らしさを求める旧全日本ファンの不興を買うこととなった。
[編集] コーチとしての実績
全日本在籍時から後輩のコーチを請負うようになり、若手時代の小川良成が教えを受けている。さらにFMWに移ると大仁田から選手育成を任され、新弟子指導を一手に引き受けようになる。ハヤブサ、ミスター雁之助、田中将斗らが、後藤から基礎を叩き込まれた。
そしてFMWが男女混合団体だったことから女子の指導も行い、教えを受けたシャーク土屋らが他団体に進出した結果、それまで全女流の作法がほとんどだった女子プロレスのリングに、後藤の作法、さらに言うなら後藤の師匠であるジャイアント馬場の作法がもたらされることにもなった。長与千種がこの件に触れて「腕のとり方一つとっても違うので面白い」と語っている。
現在も選手育成に熱心で、自前の若手選手を送り出し続けている。
[編集] リングネーム
後藤が名乗ったことがあるリングネーム
- 後藤政二
- ホー・チー・ウィン(アメリカ遠征中)
- ターザン後藤(現在も使用中)
[編集] タイトル歴
- 世界マーシャルアーツ
- 世界マーシャルアーツタッグ
- IWA世界ヘビー
- IWA世界タッグ
- NWA世界タッグチーム王座 : 1回(&ミスター雁之助)
- フロリダPWFヘビー級
- レッスルブレインタッグ
- CWA世界タッグ
[編集] その他
[編集] テレビゲーム
- ※ゲーム中にレスラーとして本人が登場する。