ハイデルベルク
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紋章 | 地図 |
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基本情報 | |
連邦州: | バーデン=ヴュルテンベルク州 |
行政管区: | カールスルーエ行政管区 |
地域連合: | ライン=ネッカー地域連合 |
郡: | 郡独立市 |
緯度経度: | 北緯 49度25分 東経 08度42分 |
標高: | 海抜 116 m |
面積: | 108.83 km² |
人口: | 142,993人 (2005年12月31日現在) |
人口密度: | 1,314 人/km² |
外国人: | 16.7 % |
郵便番号: | 69001–69126 (旧: 6900) |
市外局番: | 06221 (一部 06202) |
ナンバープレート: | HD |
自治体コード: | 08 2 21 000 |
市の構成: | 14 市区 |
市庁舎の住所: | Marktplatz 10 69117 Heidelberg |
公式ウェブサイト: | www.heidelberg.de |
行政 | |
上級市長: | ベアテ・ヴェーバー (Beate Weber) (SPD) |
ハイデルベルク(Heidelberg)は、バーデン=ヴュルテンベルク州(ドイツ連邦共和国)の都市。 同州で五番目の大きさを持つ:シュトゥットガルト、マンハイム、カールスルーエ、フライブルクに次ぐ
目次 |
[編集] 地勢
ライン川の支流、ネッカー川沿いに位置する大学都市。その美しい街並みから多くの観光客も集める。製造業も盛ん。近隣の都市としては、約20キロ北西のマンハイム、50キロ北のダルムシュタット、50キロ南西のカールスルーエが挙げられる。
[編集] 歴史
前1世紀、ケルト人の聖所がおかれていた。その後、ローマ帝国によって征服された。中世にはライン宮中伯(選帝侯)の居城であった。16世紀の宗教改革に際して、プロテスタントの牙城の一つとなった。そのため、17世紀の三十年戦争では旧教勢力のバイエルンに征服され、一時期新教側のグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍が征服したほかは、ヴェストファーレン条約が締結されるまでバイエルンの支配下におかれた。この間、戦乱を逃れたプファルツ伯の居城はマンハイムに移った。(のちの18世紀には正式に居城が移された。)三十年戦争後にプファルツ伯がハイデルベルクに戻ると街の再建に努めたが、17世紀末には再びプファルツ継承戦争で荒廃した。19世紀初頭、バーデン大公国に帰属し、19世紀後半よりドイツ帝国の都市となった。第二次世界大戦中には爆撃を免れ、戦後はアメリカ占領軍の司令部がおかれた。空爆を受けなかったことで、かつての古い町並みが今日まで残されている。
[編集] 文化
1386年、ハイデルベルク大学(ルプレヒト・カール大学)が建てられた。現在のドイツ連邦共和国内では最古の大学である。この大学でマックス・ヴェーバーは教鞭をとり、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を執筆している。
ドイツの小国の王子と酒場の娘の悲恋を描いたマイヤー・フェルスター(Wilhelm Meyer-Försters )の戯曲「アルト・ハイデルベルク」(Alt-Heidelberg)で、ハイデルベルクの名が日本人に馴染みとなっており、舞台劇として何度も上演されている。小説に登場する「赤い雄牛」亭 (Zum roten Ochsen)は今も存在し、観光スポットのひとつになっている。
[編集] 姉妹都市
ハイデルベルクは以下の都市と姉妹都市提携を行っている:
バウツェン、ドイツ
モンペリエ(フランス共和国)1961年
ケンブリッジ(イギリス連邦)1965年
Rehovot(イスラエル国)1983年
シンフェローポリ(ウクライナ)1991年
ザクセン州Bautzen 1991年
熊本市(日本)1992年
[編集] 関連項目
- ハイデルベルグ信仰問答
- ハイデルベルク原人