ミハイル・ユーズニー
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ミハイル・ユーズニー |
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基本情報 |
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英語名 | Mikhail Youzhny |
フルネーム | Mikhail Mikhailovich Youzhny |
国籍 | ![]() |
出身地 | 同・モスクワ |
生年月日 | 1982年6月25日 |
身長 | 182cm |
体重 | 72kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 両手打ち |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1999年 |
ツアー通算 | 4勝 |
シングルス | 2勝 |
ダブルス | 2勝 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | 4回戦(2003) |
全仏 | 3回戦(2004) |
全英 | 4回戦(2001・02・05) |
全米 | ベスト4(2006) |
キャリア自己最高ランキング |
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シングルス | 15位 |
ダブルス | 43位 |
Template |
ミハイル・ユーズニー(Mikhail Youzhny, Михаил Михайлович Южный, 1982年6月25日 - )は、ロシア・モスクワ出身の男子プロテニス選手。2002年のデビスカップでロシア代表チームを初優勝に導いた実績を持ち、2006年の全米オープンで男子シングルス準決勝に進出した。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス43位。これまでにATPツアーでシングルス2勝、ダブルス2勝を挙げる。身長182cm、体重72kg、右利き。
6歳からテニスを始める。13歳の時、1995年度デビスカップ決勝戦のアメリカ対ロシア戦が地元モスクワで開催され、ユーズニーはボールボーイ(球拾い)の仕事を務めた後、アメリカの代表選手たちと記念撮影をしたことがある。1999年の全豪オープン男子ジュニア部門で準優勝し、同年にプロ入り。2000年からデビスカップのロシア代表選手に選ばれ、これまで7年連続出場を果たしている。代表選手になって3年目の2002年、当時20歳のユーズニーはフランスとの決勝戦で、最終第5試合のシングルスに起用された。第1試合をロシアのマラト・サフィンが取ったが、第2試合をエフゲニー・カフェルニコフが落とし、第3試合のダブルスをカフェルニコフ&サフィン組が落としたため、フランス・チームはデ杯優勝まであと1勝に迫っていた。第4試合をサフィンが取って2勝2敗に追いつき、優勝の行方は最終第5試合までもつれた。ここに起用されたのが、ロシアのユーズニーとフランスのポール=アンリ・マシューであった。まだ若い20歳同士の試合は、先にマシューが 6-3, 6-2 と2セットを先取したが、第3セットからユーズニーが挽回し、続く3セットを 6-3, 7-5, 6-4 で取って逆転勝利を収め、ロシアにデ杯初優勝をもたらした。この優勝を知って、ロシアのエリツィン大統領も大喜びしたという。2004年のアテネ五輪では、ロシア代表選手として男子シングルスのベスト8に入り、準々決勝でアメリカ代表のマーディー・フィッシュに敗れた。
ユーズニーは2001年の全豪オープンで4大大会にデビューし、2001年・2002年・2005年と3度ウィンブルドンの4回戦に進出した。2003年は全豪オープンで4回戦進出がある。2006年度の前半はツアーで早期敗退が多く、やや精彩を欠いていたが、全米オープンでノーシードから準決勝進出を果たした。4回戦で第6シードのトミー・ロブレド、準々決勝で第2シードのラファエル・ナダルを破ったユーズニーは、2人続けてスペイン勢を連破して勝ち進んだ。とりわけ、ナダルを 6-3, 5-7, 7-6, 6-1 で破った勝利は大きなインパクトを与えたが、準決勝では地元アメリカのアンディ・ロディックに 7-6, 0-6, 6-7, 3-6 で敗れた。その3ヶ月後、2006年12月1日-3日にかけてデビスカップ決勝がモスクワの「オリンピック・スタジアム」で行われ、ロシアはアルゼンチンを「3勝2敗」で破って4年ぶり2度目のデ杯優勝を決めた。ユーズニーも代表選手に選ばれたが、アルゼンチンとの決勝戦では彼の出番はなかった。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ミハイル・ユーズニー - ATPツアーのプロフィール(英語)
- デビスカップ成績表