リジューのテレーズ
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リジューのテレーズ(Thérèse de Lisieux, 1873年1月2日-1897年9月30日)は19世紀、フランスのカルメル会修道女。本名はマリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタン(Marie-Françoise-Thérèse Martin)。修道名は「幼きイエスのテレーズ」。カトリック教会の聖人にして33人の教会博士の一人。若くして世を去ったが、その著作は今でも世界中で広く読まれ、日本でも人気のある聖人。記念日は10月1日。リジューのテレジア、幼きイエスのテレーズ(テレジア)、小さき花のテレーズ(テレジア)などとも呼ばれる。
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[編集] 生涯
リジューのテレーズはフランスのアランソン生まれ。父ルイは時計屋を営み、母ゼリーは腕のいいレース職人だった。夫婦は信仰あつく、仲が良かった。夫婦の間には9人の子供が生まれたが、結核などのために4人が夭逝し5人の娘たち(マリー、ポリーヌ、レオニー、セリーヌ、テレーズ)だけが成長することができた。テレーズは末っ子で、感受性が強く、誰からも愛される子供だった。
テレーズが4歳のときに、もともと体が弱かった母が病死、精神的に耐え切れなくなった父は店をたたみ、娘たちをつれて妻の実家ゲラン家があるノルマンディーのリジューへと移った。1882年、テレーズが9歳のとき、それまで母親がわりをつとめていた長姉のポリーヌがリジューのカルメル会修道院に入った。母親についで、第二の母であった姉を失うという体験は幼いテレーズの心に大きな影響を与える。このころからテレーズは修道女になりたいという希望を繰り返し訴えるようになる。1886年に二人の姉マリーとレオニーも修道院に入ったことでその望みがいっそう強くなった。
1887年、14歳になったテレーズはカルメル会入会を願う。父は許してくれたが、修道院の院長や指導司祭に年齢の低さを理由に断られる。ついでバイウの司教に許可を得ようとしたが、やはり年齢の低さを理由に許可されなかった。同年10月、テレーズが15歳の時、父や姉たちと共にローマへの巡礼団に加わった。そこでローマ教皇レオ13世に謁見して直接カルメル会入会の特別許可を願ったが、教皇はやはり司教と指導司祭のすすめに従うようにと穏やかにテレーズを諭した。
テレーズが16歳になり、司教がようやく修道院入りを許可したため、テレーズは1889年4月にカルメル会に入会、「幼きイエスのテレーズ」という修道名を受ける。このとき、すでに二人の姉(マリー、ポリーヌ)がカルメル会に入会していた。同じ年、かねてから体調がすぐれず、精神を病む兆候を見せていた父が心臓発作に見舞われ、療養所に入った。父はここで最期の三年をすごすことになる。1890年9月8日、最初の修道誓願を宣立したテレーズは修道名に「尊い面影」という言葉を付け加えた。
1894年7月29日、父ルイが死去。最晩年は発作の影響で下半身不随になっており、精神的に混乱したり、うわごとをいうことが多かった。父の死後、最後まで父につきそった姉のセリーヌもカルメル会に入会。聖母訪問会に入っていたレオニーを含め、姉妹全員が修道女になった。しかし、もともと体が弱く、家族から結核菌を受け継いでいたと思われるテレーズは1896年4月に喀血。そのまま病勢が進み、1897年9月30日に姉のセリーヌに守られながら24歳の若さで亡くなった。彼女は海外宣教に強い関心があり、インドシナ宣教の望みがあったが、それは果たされなかった。
死後、自叙伝が出版されたことでテレーズの名がフランスのみならず、ヨーロッパ中に知れ渡り、その親しみやすい思想によって人気が高まった。1914年6月10日、教皇ピウス10世はテレーズを列福。ベネディクトゥス15世は、通常死後50年たたないと列聖はできないという条件をテレーズに限って特別に緩和することを決定、これは異例のことであった。1925年、テレーズは死後わずか28年にして教皇ピウス11世の手で列聖された。
リジューのテレーズは病人、パイロットや花屋、宣教師、ロシアの守護聖人になっている。彼女はジャンヌ・ダルクについでフランスの第二の守護聖人とされ、宣教師のために祈っていたことから1927年には海外宣教者の守護聖人となった。1997年10月19日には教皇ヨハネ・パウロ2世によって深い霊性と思想がたたえられて「教会博士」に加えられた。教会博士の称号を与えられている聖人は現在では33人おり、女性としてはアヴィラのテレジア、シエナのカタリナに続いて3人目である。
[編集] テレーズの思想と著作
テレーズについて有名なのは、その「小さき道」である。テレーズは修道生活の中で、自分には著名な聖人たちのように「おおきなわざ(すぐれた行い)」をするほどの力がないことに思い至った。そこで神への愛をどうやって表せば良いのかと自問した。そこでテレーズが出した答えは、自分は幼な児のような「小さき道」を行くのだということであった。それは神への愛の表現として小さな愛のわざを心がけること、小さな犠牲をほほえみをもって耐え忍ぶこと、幼児が両親の愛を疑うことを知らぬように神に全面的に信頼することである。テレーズは、神とは厳しい裁きを行う者ではなく、子を慈しむ親のような愛情深い方なのだと語っている。この「小さき道」という表現は、彼女の深い霊性、精神性をもっともわかりやすく表すものになっている。また、2003年10月19日に列福されたマザー・テレサ(コルコタのテレサ)の「テレサ」という修道名はテレーズの名からとられている。自分の名が、アビラのテレサではなくリジューのテレーズからだと言うほど、テレーズを愛していた。
テレーズの名が広く知られることになったのは、彼女の自伝ともいうべき『魂の物語(ある霊魂の物語)』(邦題『自叙伝』)が多くの読者を得たためであった。これは修道会では入会者に自分の半生を振り返る記録を提出される習慣があったため、それを編集したものである。普及版は姉のポリーヌが徹底的な編集をおこなったものが元になっているため、近年ではよりテレーズのオリジナルに近いものも発表されている。ほかにもテレーズの書簡集なども出版されている。
[編集] 関連図書・関連作品
[編集] テレーズの著作
- 『幼いイエスの聖テレーズ自叙伝 その三つの原稿』(ドン・ボスコ社)
- 『幼いイエスの聖テレーズの手紙』(サンパウロ)
- 『テレジアの詩』(サンパウロ)
[編集] テレーズに関する著作
- 『モーリスとテレーズ ある愛の物語』 女子パウロ会
- 『テレーズ その生涯における苦しみと祈り』 女子パウロ会
- 『神さまだいすき 10人の聖人たち』 女子パウロ会
- 『死と闇を超えて テレーズ最後の六ヶ月』 聖母の騎士社
- 『私の使命 それは愛です』 サンパウロ
- 『聖テレーズ祈りの道』サンパウロ
- 『テレーズ 空の手で』 聖母の騎士社
- 『ある人生の物語』 聖母の騎士社
- 『わがテレーズ 愛の成長』 サンパウロ
- 『テレーズの約束 バラの雨』 サンパウロ
- 『テレーズを求めて』 サンパウロ
- 『小さきものよ われに来たれ』 ドン・ボスコ社
- 『ある家族の物語 テレーズを育てた父と母』 ドン・ボスコ社
- 『天才 リジューのテレーズ』 南窓社
- 『教育者テレーズ』 ドン・ボスコ社
[編集] テレーズに関する映像作品
- 映画『テレーズ』(Thérèse) 1986年 フランス映画 監督:アラン・カヴァリエ 主演:カトリーヌ・ムーシェ
- ビデオ『テレーズ・マルタン 幼きイエスの聖テレジアの生涯』(モノクロ) 女子パウロ会
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 聖人 | キリスト教神秘思想家 | 1873年生 | 1897年没