ルイ・ド・ブルボン (アンジュー公)
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ルイス・アルフォンソ・ゴンザロ・ビクトル・マヌエル・マルコ・デ・ボルボン・イ・マルチネス=ボルディウ(スペイン語:Luis Alfonso Gonzalo Víctor Manuel Marco de Borbón y Martínez-Bordiú, 1974年4月25日 - )は、ブルボン家の現在の当主。フランス王家の継承者を自認し、支持者たちによってアンジュー公ルイ・ド・ブルボン(フランス語:Louis de Bourbon)、あるいはフランス王ルイ20世と呼ばれる。
[編集] 背景
“ルイ20世”の支持者は、王党派のなかでも正統派(正統王朝派)と呼ばれる。これは本来、1830年8月9日にシャルル10世が廃位され、従弟のルイ・フィリップが「フランス人の王」に即位した後もシャルル10世を「正統な」国王として支持した人々を指していた(これに対し、オルレアン家のルイ・フィリップの支持者たちは「オルレアン派」と呼ばれた)。1836年11月6日にシャルル10世が死去すると、正統派たちはその孫シャンボール伯アンリを継承者(“フランス王アンリ5世”)とみなした。
“アンリ5世”が後継者を定めず1883年8月24日に死去すると、一部の正統派はルイ・フィリップの孫パリ伯フィリップを後継者(“フィリップ7世”)と認めたが、オルレアン家への支持を是としない正統派はスペイン王フェリペ5世(ルイ15世の叔父)の子孫フアンを“ジャン3世”として王位継承者とした。スペインのブルボン家はスペイン継承戦争の結果フランス王位の継承権を放棄していたが、正統派はフィリップ平等公がフランス革命時に王位継承権を放棄していたにもかかわらずその子ルイ・フィリップが即位したことを反例に、王位継承権放棄宣言は子孫にまで影響することはないとして、最近親の“ジャン3世”を継承者としたのである。以後、ブルボン家の当主としてスペイン王家は(ユトレヒト条約によってスペインとフランスの同君連合は禁止されているものの)フランス王位請求権を継承している、と正統派たちは考えている。
ルイス・アルフォンソの支持者は、フランス語で「スペインの白」を意味する「ブラン・デスパーニュ」(Blancs d'Espagne)と呼ばれる。また対立者からは「アルフォンソ派」(Alfonsists)とも呼ばれる。
[編集] 経歴
ルイス・アルフォンソ・デ・ボルボンは1974年、アンジュー公およびカディス公アルフォンソ・ド・ボルボン・ダンピエレとの子供としてマドリードで生まれた。アルフォンソ・ド・ボルボンの妻ドニャ・マリア・デル・カルメン・マルチネス=ボルディウ・イ・フランコ(Doña María del Carmen Martínez-Bordiú y Franco)はフランシスコ・フランコ・バハモンデの孫で、フランコはアルフォンソ・デ・ボルボンに子供ができた際にカディス公殿下の称号を与えている。
1975年3月20日、アンジュー公およびセゴビア公を名乗っていた祖父の死去により、父アルフォンソは“フランス国王アルフォンス2世”となり、同時にアンジュー公の称号も継承した。ルイス・アルフォンソは1981年9月19日に父からトゥーレーヌ公に叙され、1984年2月7日に兄のフランシスコが自動車事故で死去したため、加えてアルフォンス2世の継承者としてブルボン公の称号も帯びた。
1989年1月30日、父のアルフォンス2世はコロラド州ビーヴァー・クリーク(Beaver Creek)でのスキー事故により死去した。これを受け、ルイス・アルフォンソはフランス王位請求者になり、アンジュー公の称号も継承した。ただしカディス公の称号は、スペイン政府が1987年に世襲の称号ではないと主張したため継承していない。
ルイス・アルフォンソは大学で経済学を学び、銀行に勤務している。規則的にフランスを訪れてはいるものの、専らスペインで暮らしている。2003年11月にベネズエラ出身のマリア・マルガリタ・バルガス・イ・サンタエリャ(María Margarita Vargas y Santaella)との婚約が発表され、翌2004年11月にドミニカのラ・ロマーナ(La Romana)で結婚式を挙げた。
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