三六戦争
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三六戦争(さんろくせんそう)は、共に清和会所属で運輸族の実力者である加藤六月と三塚博の、国鉄民営化を巡る対立から始まる(前者は反対派、後者は推進派)、清和会内部での主導権、運輸利権を巡る争いである。(加藤、三塚、塩川正十郎、森喜朗の四人は清和会・安倍派四天王と称される)1991年に清和会会長だった安倍晋太郎元幹事長逝去に伴う後継者争いに、清和会事務総長であった三塚は自ら立候補し、早稲田大学雄弁会の後輩の森喜朗が三塚を支持。加藤は自民党政調会長で派閥から離れていたため、塩川正十郎を推す。最終的に、元会長の福田赳夫が塩川に候補から降りるよう説得し塩川が従ったため、三塚が次期会長と決まった。
[編集] 三六戦争のその後
清和会・三塚派が誕生。宮沢内閣で塩川自治相、岩崎総務長官、宮下防衛長官、谷川科技長官、中村環境長官(宮沢改造で森通産相、小泉郵政相、村田自治相、鹿野総務長官、林環境長官が入閣)が誕生。一方の加藤政調会長は、派閥を除名された。加藤は、1991年の宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚が立候補した自民党総裁選で、三塚の得票数を最下位にするため、シンパの議員と共に渡辺に投票したと言われ、目的は達する(宮沢:285、渡辺:120、三塚:87)1991年加藤は、新たに吹田あきら、古賀一成、山岡賢次、田名部匡省らで政眞会を結成。宮沢内閣で田名部が農水相)に就任(宮沢改造で留任)。
1993年6月宮沢内閣不信任決議案で加藤と同じく派閥領袖の跡目争いに敗れた羽田派に同調して加藤、吹田、古賀が賛成票と投じ解散総選挙に追い込み自民党が7月の衆院選で過半数割れ。羽田派が結成した新生党に移籍し細川連立内閣に参加する。三塚派は、宮沢首相の辞任から河野洋平新総裁の誕生で森幹事長が誕生(95年7月森の後任に三塚が幹事長に就任)。