中野栄治
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中野 栄治(なかの えいじ、1953年3月31日 - )は中央競馬・美浦トレーニングセンター所属の調教師。東京都出身だが生まれは大分県。
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[編集] 経歴
1971年に美浦の荒木静雄厩舎所属の騎手としてデビュー。1976年のきさらぎ賞(スピリットスワプス)で重賞初勝利。1981年からフリー(どこの厩舎にも所属しない騎手)に。騎乗フォームが美しい騎手としても知られ、自らもそれをアピールポイントにしていた時期もある。
[編集] アイネスフウジンと中野
騎手時代の代表馬といえば、やはり東京優駿(日本ダービー)と朝日杯3歳ステークスのGIを2勝したアイネスフウジンが挙げられる。
1989年夏、中野は当時36歳。美浦の中堅騎手だったが体重管理の失敗とその以前に起こした交通事故で厩舎サイドからの信用を落としてしまっていて、騎乗する馬がほとんどいない状態だった。夏競馬の最中で人も馬も閑散としている美浦トレーニングセンターで声をかけたのが加藤修甫調教師だった。 「中野、おまえダービー取ってみたいだろ。ウチのに乗ってみないか?」
それがアイネスフウジンだった。
中野と加藤の期待に応え、2戦目で未勝利戦を勝ち上がると朝日杯3歳ステークスでは、マルゼンスキーが記録した1分34秒4のレコードタイで勝利した。このため、翌1990年のクラシックレースでも期待されたが、皐月賞では他馬のスタート直後の斜向による出遅れが響きハクタイセイの3着に敗れる。この敗戦で中野自身も乗り替わりを覚悟したというが、加藤は「おまえのせいで負けたんじゃない。最後までまかせたからな。」と引き続き騎乗することになった。東京優駿(日本ダービー)では人気を落とすがそれに反発する様に中野はレース前に報道陣に向かって、「(馬券が買えるならば)借金してでもアイネスフウジンを一番人気にしてやりたい」と語っている。(実際の一番人気はメジロライアン) そしてレースのゲートが開くと中野はアイネスフウジンを速いペースで最初から逃げ、2分25秒3のレースレコードで逃げ切った。2分25秒台で日本ダービーを勝った馬は過去に居らず、記録が破られるのは実に14年後の事だった。ゴール直後、中野は馬上でこれまでの苦労した騎手人生をかみ締めるように「ざまあみろ!このオレだってジョッキーだ!」とつぶやいたという。この快挙に東京競馬場に詰めかけた約20万の観客から「ナカノ!ナカノ!」と中野コールがわき起こった。競馬場でGIレースの勝利騎手、勝利馬にコールが起きるのは、この時以来とされている。
しかしアイネスフウジンが脚部不安で引退すると再び騎乗馬に恵まれず、1992年には年間0勝に終わってしまい、「年間勝利ゼロのダービージョッキー」としてテレビのドキュメントに取り上げられたこともあった。
1995年にJRA調教師免許を取得し騎手を引退。通算成績3670戦370勝(うち重賞16勝)。
翌1996年に厩舎を開業。2001年に管理馬のトロットスターで高松宮記念、スプリンターズステークスを制する。
[編集] 成績
騎手成績 3670戦370勝
[編集] 記録年表
- 1995年、JRA調教師免許取得。3月開業。初出走は3月10日1回中京4日目3Rエータイムの7着。
6月9日1回札幌2日目1Rエータイムで延33頭目にして初勝利。
- 2000年、トロットスターで初重賞(CBC賞)制覇
- 2001年、トロットスターで高松宮記念、スプリンターズステークスと GI レースを初制覇とともに2勝する。