二井原実
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ニ井原実(にいはらみのる)は日本の歌手、ヘヴィメタルバンドラウドネス、X.Y.Z.→Aのヴォーカリスト。1960年3月12日生 大阪出身。愛称は「みの吉」「ニ井原先輩」「ニイチャン」「世界のニイハラ」
目次 |
[編集] ニ井原の歴史
1960年、大阪府大阪市住吉区で生まれる。小学生の頃、ビートルズやブルースやR&Bに興味を持ち、祖母にベースを買ってもらったことでニ井原の音楽人生はスタートした。
上宮高校に入学する頃には同級生の石原慎一郎と共にアースシェイカー(アースシェイカーは1983年にデビュー)を結成し、ニ井原はベーシストとして参加したが、当時のボーカルが酷かった為かボーカリストをクビにしてニ井原自身がボーカルを兼任しながらベースを弾くことにしていた。
だが、1980年には「ハードロックはもうやらない」と言う理由でアースシェイカーを脱退してしまい、ソウルシンガーとしての道を歩むことを選んだ(この時期にムード歌謡グループ「ニック・ニューサー」のヒット曲「サチコ」のレコーディングにコーラスとして参加している)。
佛教大学軽音楽部では藤村幸宏らとファンクバンド「青春会」を結成し、ITACHIなどと共に京都では有名なファンクソウルバンドになる。 翌年、ニ井原のソウルバンド時代の音源を聴いたレイジーの高崎晃がニ井原の声に興味があるのでオーディションを受けてほしいとの電話が入り、軽い気持ちで受けることを決め、(ニ井原曰く)5000円札を握り締めながら夜行バスに乗り、上京した。
そして、オーディションには見事合格したものの、高崎と樋口はまだレイジーの活動もあり、新しいバンド名も決まっておらず、ニ井原が加入した数ヶ月間は宙ぶらりんな状態であったそうだ。 1981年5月末にレイジーが解散し、一段落したのを機に8月にはデビューアルバムのレコーディングを開始、バンド名もLOUDNESSに決定したのもこの頃である。
そして、ラウドネスは1981年11月にデビューした(ラウドネス時代についてはラウドネスの項目参照)。
1988年末、各音楽雑誌に「ニ井原実(LOUDNESS)脱退!帰国」というニュースは世界中のヘヴィメタルファンに衝撃を与えた(実際は脱退ではなく解雇であった)。1989年にはソロアルバム「ONE」をリリースし、中間英明、藤村“茶々丸”幸宏らを従えてツアーを開始。
1990年、茶々丸(g)、永井敏巳(b)菅沼孝三(Dr)と言ったテクニカル集団らと共に「デッド・チャップリン」なるバンドを結成する。 1994年、石原慎一郎(g)、寺沢功一(b)、樋口宗孝(Dr)らと共に「SLY」を結成。(SLYについてはSLYの項目参照)
1999年、SLYの活動が休止したのを機に引退を決意していたが、ファンキー末吉に説得され、末吉とともにX.Y.Z.→Aを結成する。(X.Y.Z.→AについてはX.Y.Z.→Aの項目参照)
2000年、ラウドネスに復帰。
2006年、17年振りのソロアルバム『Ashes to Glory』をリリース。ラジオ番組「Heavy Metal Syndicate」の宛て先BGMでお馴染みの全盲と言うハンデを背負うテクニカルギタリスト「田川ヒロアキ」のプロデュース兼ギタリストとしての参加が話題となった。
[編集] ニ井原伝説
- ハードロックを辞めると言う理由でアースシェイカーを脱退したニ井原がラウドネスでデビューしたと知った石原は「シェイカーがデビューしたら絶対シバいたる!」と思っていたそうだが、ある日、偶然二人が会った時のニ井原の第一声は「すまん!許してくれ!」だったそうで、その後あっさり和解したそうだ。
- ラウドネス~SLY時代は威厳あるロックシンガーニ井原実として振舞っていたが、X.Y.Z.→AではセクハラまがいのMCを繰り出すコミカルなシンガーとしても活動しており、ライブ会場でもセクハラまがいの掛け合いを繰り返すのは恒例となっており、女性ファンまでもが盛り上がる光景が見られる。
- 例:「やらせろ~!(ニ井原)」「やらせろ~!(男)」「いいわよ~!(ニ井原)」「いいわよ~!(女)」、「しゃぶって~!(ニ井原)」「しゃぶって~!(男)」「しゃぶりた~い!(ニ井原)」「しゃぶりた~い!(女)」
[編集] ディスコグラフィー
- ONE(1989)
- Ashes to Glory(2006)
[編集] 著書
- ロックンロール・ジプシー