二十四孝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二十四孝(にじゅうしこう)は、中国に於ける孝行が特に優れた人物二十四名を賞して、後世の模範とした物である。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、親孝行を美徳且つ当然の行いとして治世に活かした。その中には四字熟語や、ちなんだ物品にその名前が付いた物もある。日本にも伝来し大いに模範とされ、仏閣等の建築物に人物図などが描かれている。御伽草子にも採られ、寺子屋の教材としても用いられた。井原西鶴は本朝二十不孝を著した。元来、親孝行の心は世の東西・時代を超えて美徳であり、これを行うのに優劣は無い。ここでは二十四孝の代表的な人物と、その内容を記す(文献によっては人物・順序・内容が違う場合もある為)。順不同。
目次 |
[編集] 陸績
陸績(りくせき)は六歳の時に袁術(えんじゅつ)と言う人の所に居た。袁術は陸績の為におやつとして蜜柑を与えた。陸績はそれを三つ取って帰ろうとすると、袖から蜜柑がこぼれてしまった。袁術は「陸績君は幼いのに泥棒の様な事をするのかね」と言った所、陸績は「あまりに見事な蜜柑なので、家に持ち帰って恩に報いようと母に食べさせようと思いました」と言った。袁術はこれを聞いて「幼いのに何という親孝行な子供であろうか、過去現在に於いて稀な心がけである」と褒め称えた。
[編集] 田眞兄弟
田眞(でんしん)、田廣(でんこう)、田慶(でんけい)の三兄弟は、親亡き後財産を三等分したが、庭に大きく繁り花を咲かせた木があった。兄弟はこれも三等分しようと徹夜で考えた。夜が明けたので、木を切ろうと庭に出てみると昨日まで繁っていた木が急に枯れていた。田真はこれを見て「草木にまで心があって、切られようとして枯れたのであれば、人間では尚更である。なんと至らない事であっただろうか」と言い切らずにおくと、木はまた元の様に見事に繁ったのである。
[編集] 剡子
剡子(ぜんし)には年老いた両親がおり、眼を患っていた。鹿の乳が眼の薬になると聞き剡子に欲しいと願った。剡子は鹿の皮を身にまとい、鹿の群れに紛れて入った。そこへ猟師が本物の鹿と間違えて剡子を射ようとしたが、剡子が「私は本物の鹿ではありません。剡子と言いまして、親の願いを叶えたいと思いこうやって鹿の格好をしているのです」と言うと、猟師は驚いてその訳を聞いた。孝行の志が篤いので射られずに帰り、親孝行をする事が出来た。
[編集] 蔡順
王莽の時代に天下は乱れ、又飢饉が訪れ食べる物も無かった。蔡順(さいじゅん)は母の為に桑の実を採り、熟していない物と熟した物に分けていた。その時、盗賊(赤眉の乱の盗賊と思われる)が現れ「何故桑の実を二つに分けるのか」と尋ねた所、蔡順は「私には一人の母親がおりますが、熟した物は母親に、熟していない物は自分にと思っていたのです」と言った。流石の非道な盗賊も蔡順の孝行の心を知り、米と牛の足を与えて去って行った。蔡順はその米と牛の足をも母親に与えた。
[編集] 閔子騫
閔子騫(びんしけん、子騫は字。諱は損)は幼い時に母を亡くし、父が再婚して異母弟二人が出来た。継母は実子二人を愛し、継子の閔子騫を憎んで、自分の子には冬には綿入りの着物を与えたが、閔子騫には蘆の穂を入れた着物を与えた。閔子騫が寒さに凍えているのを見て、父が継母と離縁しようと言うと閔子騫は「母上が去られては、三人の子供は凍えます。私一人が凍えていれば、弟二人は暖かいのでどうか離縁しないで下さい」と言った。継母はこれに感激し、以後は実母の様に閔子騫を可愛がったという。(※孔子の弟子)
[編集] 黄香
黄香(こうこう)は母を亡くし、残された父によく仕えた。夏の暑い時には枕や椅子を団扇で扇いで冷やし、冬の寒い時には布団が冷たいのを心配し、自分の身体で暖めた。これを知った時の安陵の太守・劉讙(又は劉護)と言う人は、高札を立てて黄香の孝行を褒め称えた。
[編集] 呉猛
呉猛(ごもう)は八歳であったが、家は貧しく蚊帳を買う金も無かった。呉猛は考え、自分の着物を親に着せ、自分は裸になって蚊に刺された。親が蚊に刺されないように、毎日毎日蚊に刺された。すると、蚊も呉猛だけを刺し、親を刺す事は無くなったと言う。
[編集] 楊香
楊香(ようこう)には一人の父がいた。ある時父と山に行った際に虎が躍り出て、今にも二人を食べようとした。楊香は虎が去る様に願ったが叶わないと知ると、父が食べられないように「天の神よ、どうか私だけを食べて、父は助けて下さいませ」と懸命に願った所、今まで猛り狂っていた虎が尻尾を巻いて逃げてしまい、父子共に命が助かった。
[編集] 張孝兄弟
張孝(ちょうこう)と張禮(ちょうれい)の兄弟は、飢饉の時に八十歳を超えた母を養っていた。木の実を拾いに行った所、盗賊が現れて張礼を食おうとした。張礼は「私には一人の年老いた母親がいます。今日はまだ母が食事をしていないので、少しだけ時間を下さい。母に食事をさせればすぐに戻って来ます。もしこの約束を破れば、家に来て一家もろとも殺して下さい」と言って、母親の食事を済ませて盗賊の所に戻って来た。張孝はこれを聞いて走って盗賊の所に行って「私の方が弟より太っています。私を食べて、弟を助けて下さい」と言う。張礼は「これは最初の約束なので、私が食べられます」と言って死を争った。それを見た非道な盗賊も兄弟の孝行心に打たれ、この様な兄弟は見た事が無いと二人の命を助け、更に沢山の米と塩を与えた。兄弟はそれらを持って帰り、更に孝行を尽くした。
[編集] 丁蘭
丁蘭(ていらん)の母が亡くなると、丁蘭はその死を悲しみ母の木像を作って生きている時の様に尽くした。丁蘭の妻がある夜、母の木像の顔を火で焦がしてしまうと、木像は腫れて血が流れ、二日経つと妻の髪の毛が全て無くなってしまった。妻は何度も詫びをするが一向に変わらないので、丁蘭は驚いて木像を大通りに移し、妻に三年間詫びをさせた。すると、一夜のうちに風雨の音がして木像は元の場所に戻ったと言う。
[編集] 王裒
王裒(おうほう)の父・王義(おうぎ)が時の皇帝の怒りに触れて罪も無いのに亡くなった。王裒はこれを恨み、皇帝の居る方角には決して向かないで座った。王裒は父の墓の前で礼拝し、傍らにあった柏の木にすがって泣き続けた為に、柏の木は枯れてしまう程であった。母は雷が怖い人であったが、その死後も雷が鳴ると王裒は母の墓に急ぎ行った。死後の孝行もこれ程であるから、生前の孝行は計り知れないであろう。
[編集] 王祥
王祥(おうしょう)は母を亡くした。父は後妻をもらい、継母からひどい扱いを受けたが王祥は恨みに思わず、継母にも大変孝行をした。実母が健在の折、冬の極寒の際に魚が食べたいと言い、王祥は河に行った。しかし、河は氷に覆われ魚はどこにも見えなかった。悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が二匹出て来た。早速獲って帰って母に与えた。この孝行の為か、王祥が伏した所には毎年人が伏せた形の氷が出るという。
[編集] 姜詩
姜詩(きょうし)の母は、いつも綺麗な川の水を飲みたいと思い、魚を食べたいと言っていた。姜詩と妻は、いつも長い距離を歩き、母に水と魚を与えてよく仕えた。するとある時、姜詩の家のすぐ傍に綺麗な川の水が湧き出、毎朝その水の中に鯉がいた。姜詩と妻の孝行を感心に思って天が授けた物であろう。
[編集] 孟宗
孟宗(もうそう)は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていた。病気になった母は、あれやこれやと食べ物を欲しがった。ある冬に筍が食べたいと言った。孟宗は竹林に行ったが、冬に筍がある筈も無い。孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていた。すると、あっと言う間に雪が融け土の中から筍が沢山出て来た。孟宗は大変喜び、筍を採って帰り熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて天寿を全うした。これも深い孝行の思いが天に通じたのであろう。(孟宗竹の語源と言われる)
[編集] 郭巨
郭巨(かくきょ)の家は貧しかったが、母と妻を養っていた。妻に子供が産まれ三歳になった。郭巨の母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えていた。郭巨が妻に言うには「我が家は貧しく母の食事さえも足りないのに、孫に分けていてはとても無理だ。夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養おう」と。妻は悲嘆に暮れたが夫の命には従う他無く、三歳の子を連れて埋めに行く。郭巨が涙を流しながら地面を少し掘ると黄金の釜が出、その釜に文字が書いてあった。“孝行な郭巨に天からこれを与える。他人は盗ってはいけない”と。郭巨と妻は黄金の釜を頂き喜び、子供と一緒に家に帰って更に母に孝行を尽くした。
[編集] 董永
董永(とうえい)は幼い時に母と別れ、家は貧しくいつも雇われ仕事の小銭で日々暮らしていた。父も足が悪かったので、小さな車を作って父を乗せて田んぼのあぜまで連れて行き、農作業をしていた。そして父が亡くなると葬式をしたいと思ったが、貧しいのでお金が無い。そこで、身売りをしてその金で葬式をした。身請け主の所へ行こうとすると、途中で一人の美女がいた。美女が言うには「私は董永の妻となるべく、絹を織って身請け主に届け許されました」と。そして董永の妻となり、最後に「私は天の織姫ですが、貴方の孝行な心に感じて天が私にお命じになりました」と言うと、天に帰って行った。深い孝行の心が起こした事であろう。
[編集] 舜
舜(しゅん)は大変孝行な人で、父の名前は瞽叟と言い頑固者で、母はひねくれ者、弟は奢った能無しであった。しかし舜は、ひたすら孝行を続けた。舜が田を耕しに行くと、象が現れ田を耕し、鳥が来て田の草を取り、耕すのを助けた。その時の皇帝を堯と言った。堯は舜の孝行な心に感心し、娘を娶らせ皇帝の座を舜に譲った。これも孝行の心が起こした事である。
[編集] 漢文帝(劉恒)
漢の文帝は、漢の高祖の子である。名を恒(こう)と言った。母の薄太后に孝行を尽くし、食事の際は自ら毒見をする程であった。兄弟も沢山いたが、文帝ほど仁義・孝行な皇帝はいなかった。その為、陳平(ちんぺい)・周勃(しゅうぼつ)などの家臣が、皇帝に推戴し漢の文帝と言われるようになった。孝行とは誰もが知っているが実際に行う事は難しい。だが、皇帝の身分で孝行を行った事は神の如き志である。であるから、文帝の世は豊かになり民衆も住みやすくなったのだ。
[編集] 山谷(黄庭堅)
山谷(さんこく)黄庭堅(こうていけん)は、宋の詩人である。現在でも詩人の祖と言われている人である。使用人も多く妻もいたが、自ら母の大小便の便器を取り、汚れている時は素手で洗って母に返し、朝から夕方まで母に仕えて怠けた事は無い。であるので、一をもって万を知ると言うからその他にした孝行は推して量るべきで、山谷の孝行は天下に知られたのである。
[編集] 庾黔婁
庾黔婁(ゆけんろう、ゆきんろう)は南斉の人で、セン(尸の中に孨)陵県の役人になっていたが、着任して十日も経たないうちに、胸騒ぎがしてならない。父の病気かと思い、役人を辞めて家に帰ると案の定大病を患っていた。庾黔婁が医師に病状を尋ねると、病人の便を舐めて甘く苦ければ良かろうと言う。庾黔婁は簡単な事だと言って舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星(北極星)に身代わりになる事を祈り続けた。
[編集] 朱壽昌
朱壽昌(しゅじゅしょう)は、七歳の時に父母が蒸発してしまった。なので母をよく知らない事を嘆いていて、なんと会えない期間は五十年にもなった。ある時朱壽昌は役人であったが職も妻子も捨て、自らの血でお経を書いて天に祈っていると、秦と言う所に母がいると告げられ、遂に母に会う事が出来た。これも志が深いからである。
[編集] 曾參
曾参(そうしん)は、ある時薪を取りに山に行った。母が留守番をしている所に曾参の親友が訪ねて来た。母はもてなしたいと思ったけれども、曾参は家にいないし元々家が貧しいのでもてなす事が出来ず、“曾参、急いで帰って来てくれ”と、指を噛んで願った。曾参は山で薪を拾っていたが、急に胸騒ぎがするので急いで家に帰ってみると、母が事のいきさつを話してくれた。指を噛んで願ったのが、遠くの曾参に響いたのは孝行の心で、親子の情が深い証拠である。(※孔子の弟子)
[編集] 唐夫人
唐夫人(とうふじん)は、姑の長孫夫人に仕え、姑に歯が無いのでいつも乳を与え毎朝姑の髪を梳いて、その他様々な事で仕え、数年が経った。ある時、長孫夫人が患い、もう長くないと思って一族を集めて言うには「私の嫁の唐夫人の、これまでの恩に報いたいが、今死のうとしているのが心残りである。私の子孫達よ、唐夫人の孝行を真似るならば、必ず将来繁栄するであろう」と言った。この様に姑に孝行なのは過去現在珍しいとして、皆褒め称えたと言う。なので、やがて恩が報われ、将来繁栄する事は当たり前の事である。
[編集] 老莱子
老莱子(ろうらいし)は、両親に仕えた人である。老莱子が七十歳になっても、身体に派手な着物を着て子供の格好になって遊び子供のように愚かな振る舞いをし、また親の為に食事を運ぶ時もわざと転んで子供が泣くように泣いた。これは、老莱子が七十歳の年寄りになって若く美しくない所を見せると、息子もこんな歳になったのかと思い親が悲しむのを避け、また親自身が年寄りになったと悲しまないように、こんな振る舞いをしたのである。
文献:岩波書店刊日本古典文学大系38御伽草子、二十四孝詩選