侯音
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侯音(こうおん 生年不詳 - 219年 )は、中国三国時代の南陽郡の宛の豪族。
[編集] 略要
曹操の武将として、関羽に備えていた。しかし、南陽郡では軍役の重さが過酷だったので、ついに侯音は218年末に衛開と共に関羽と内通し、三千名の軍勢を率いて謀反を起こした。
また、侯音は付近の山賊達を煽動し、南陽近隣の諸県の官吏・民衆ら数千人を捕虜とした。これを聞いた南陽太守・東里袞は侯音の反乱に驚愕した。東里袞は郡の功曹・応余と共に混乱の真っ最中を幸いに宛城を無事に脱出した。
ところが、この報を聞いた侯音は追っ手を追撃した。案の定、10里先で東里袞一行に追いついた。追撃隊が東里袞一行を目掛けて矢を射かけた。すると応余が東里袞の前に出てこれを庇い、矢に浴びられて壮絶な戦死を遂げた。部下の死に激怒した東里袞は、わずかの部下と共にその追撃隊と果敢に戦って、これを撃退した。亡き応余の節義を褒めてその死を憐れみ、これを手厚く葬った。
しかし結局、東里袞は侯音に度重ねる追撃でついに捕虜となった。だが、亡き応余の親友だった功曹・宗子卿は侯音の部下だったが、東里袞を慕っていた。一案を案じた宗子卿は侯音に進言した。「民衆に敬慕されている東里袞を何故、解放なさらないのです?このままではあなた様の蜂起は無益な結果となってしまいます。また、関羽の援軍が到着する前に魏公・曹操が宛にやって来ると、間違いなくあなた様は誅殺されるでしょう。それを柔げるためには東里袞を釈放すべきです」と述べた。侯音も「なるほど…もっともだ」と言って東里袞を解放した。解放された東里袞は親友である楊州刺史の温恢を頼って行った。間もなく彼は温恢と共に軍勢を率いて南陽郡に戻って来たという。
だが、宗子卿は侯音の謀反を決して批判していなかった。むしろ、共感する部分が多かったという。何故なら、南陽郡の領民は過酷な軍務に苦しんでおり、侯音は衛開と共にそれを救済するために反乱を起こしたのである。だからこそ、多くの領民と山賊が侯音を支えたのである。
しかし、侯音に同情した宗子卿も深夜に宛城を脱出し、東里袞一行に合流し、四散した敗残兵を集めて宛城を取り囲んだ。曹操の命を受け、事の緊急を悟った曹仁が樊城から龐悳と共に侯音討伐にやって来た。東里袞・宗子卿・温恢らは驚喜し、宛城を攻撃した。侯音は宛城で籠城して関羽の援軍を待機した。だが、翌年正月早々に宛城は曹仁・龐悳の軍勢の猛攻で陥落してしまった。ついに侯音は衛開と一緒に捕虜となり、配下と共に処刑され、晒し首になったという。
また、東里袞は狼藉を働いた侯音の支持者を逮捕して、彼等を即刻に処刑している。だが、侯音の支持者達は過酷な軍務を指図した東里袞ら南陽郡の官吏達を怨んでおり、「侯音公万歳!侯音公万歳!」と刑死寸前まで叫んで、東里袞らを激しく罵ったという。