六浦藩
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六浦藩(むつうらはん)は武蔵国久良岐郡の一部(現・神奈川県横浜市金沢区)、相模国大住郡の一部(現・神奈川県平塚市・秦野市)などを領した横浜市内唯一の藩。金沢文庫で知られる久良岐郡金沢(かねさわ、かなざわ)近傍に陣屋を置いたため武蔵金沢藩とも六浦藩とも呼ばれる(ただし、金沢文庫周辺の各村は当藩の所領ではない)が、久良岐郡内よりも大住郡などの飛地の方が村数・石高ともに大きい。
明治2年(1869年)6月の版籍奉還を受けた明治政府による知藩事任命後に六浦藩を正式名称とした。加賀金沢藩(加賀藩)との同名回避のためと思われる。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により六浦県となり、同年11月14日同県管轄区域のうち相模川以東が神奈川県に、相模川以西が足柄県に統合された。
元来、米倉氏は柳沢氏同様、甲斐武田氏に仕え、天正10年(1582年)に武田氏が織田信長によって滅亡された後、徳川家康に仕え、米倉昌尹の代になり5代将軍・徳川綱吉のもとで柳沢氏同様に頭角をあらわし、下野皆川藩にて1万5000石を領し、うち3000石を分地した。その後陣屋を六浦に移した。六浦藩の初代藩主・米倉忠仰は柳沢吉保の実子である。
なお、現在、陣屋跡には現在の当主がお住まいである(米倉氏の菩提寺は神奈川県秦野市の蔵林寺である)。陣屋遺構として石段が残っている。
[編集] 歴代藩主
- 譜代 陣屋 1万2千石
- 初代 忠仰(ただすけ)〔従五位下・主計頭〕
- 二代 里矩(さとなり)
- 三代 昌晴(まさはる)〔従五位下・丹後守〕
- 四代 昌賢(まさかた)〔従五位下・長門守〕
- 五代 昌由(まさよし)〔従五位下・丹後守〕
- 六代 昌俊(まさのり)〔従五位下・丹後守〕
- 七代 昌寿(まさなが)〔従五位下・丹後守〕
- 八代 昌言(まさこと)〔従五位下・丹後守〕
[編集] 関連項目
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