冀東防共自治政府
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冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)は、1935年から1938年まで中国河北省にあった殷汝耕を首班とする政権。北支分離を謀る日本(関東軍)が作成した傀儡政権とされる。
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[編集] 経緯
[編集] 華北分離政策
1933年5月の土肥原賢二・秦徳順協定(塘沽協定)締結以後、関東軍は、華北5省の自治も策動し始めた。1935年9月、天津駐屯軍司令官多田駿は、反満抗日分子の華北からの徹底駆逐、華北経済圈の独立、華北5省との軍事協力・赤化防止の3項目から成る声明を出した。10月4日の閣議において、陸軍大臣川島義之も、華北自治奨励案を提出し、華北分離は日本の正式な政策となった。
当初、二十九軍軍長宋哲元、河北省主席商震、山東省主席韓復榘、山西綏遠綏靖主任閻錫山の4人が工作対象とされたが、彼らは傍観の態度をとり、自治政権の樹立に明確に賛同しなかった。
[編集] 土肥原の恫喝
11月11日、土肥原は、蒋介石に不満を持っていた宋哲元に彼を首班として自治政権を樹立することを提案した。同時に、11月20日まで自治を宣布しなければ、華北に日本軍を投入するとの最後通牒も突きつけた。土肥原の行動を支援するために、関東軍司令官南次郎は、11月12日、独立混成第一旅団の山海関への派遣命令を下した。また、16日、航空隊6個中隊が山海関、錦州地区に集結し、旅順、青島の巡洋艦と駆逐艦各1隻が大沽口に派遣された。
これらの圧力にも拘らず、宋哲元は、自治を行わないことを土肥原に通知した。宋哲元に対する工作失敗後、早稲田大学の卒業生で、日本通として知られる殷汝耕に狙いが定められた。
[編集] 冀東防共自治政府の成立
当時、殷汝耕は、蘚密区と灤楡区の専員を兼任しており、冀東地区の全権を掌握していた。在任期間、彼は外貨獲得のため日本企業を優遇しており、当然日本との関係は良好だった。11月23日、土肥原は、殷汝耕を宴席に接待し、冀東の独立を持ちかけた。翌日、殷汝耕は、各県県長と保安隊長を招集し、中央から離脱して自治を宣言することを決定した。この地区の人口は、約七百万人であったと伝えられる。
1935年11月25日、殷汝耕を首班とする冀東防共自治委員会が、通州において成立した。成立大会上において、殷汝耕は、殷汝耕、張慶余、張硯田、李海天、李允声、王厦材、池宗墨、殷体新、趙雷等9人を委員とし、自らを委員長とすることを宣布した。自治区域は、冀東22県の外、延慶、龍関、赤城の3県を包括した。
12月25日、殷汝耕は、「冀東防共自治委員会改組冀東防共自治政府宣言」と「冀東防共自治政府組織大綱」を発表し、冀東防共自治政府を正式に発足させた。殷汝耕は、政務長官を自任し、全権を掌握した。
政府の下には、秘書、保安、外交の3処と民政、財政、教育、建設の4庁が設置された。戦区保安隊は、自治政府軍に改編され、保安第一から第五総隊も、第一から第五師に改称し、張慶余、張硯田、李海天、趙雷、李允声が各々師長に任じた。
[編集] 終焉
1937年7月29日、首都通州で、日本軍の管理下にあった中国人保安隊による反乱事件(通州事件)が発生、事件の中で、日本人・朝鮮人居留民約200名が殺害された。この事件については冀東政府が正式陳謝を行い、さらに120万円の賠償金を支払う形で「解決」した。その後1938年、冀東政府は中華民国臨時政府に吸収併合され、発足後2年足らずで消滅することとなった。
[編集] 関連項目
- 土肥原賢二
- 冀察政務委員会
- 冀察銀行