前田長皓
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前田 長晧(まえだ ながあきら、安永9年(1780年) - 文政7年12月12日(1825年1月30日))は、江戸幕府の高家旗本で表高家。前田隠岐守清長の7男であるが、実兄・帯刀珍長が嗣子が無いため、寛政10年7月5日19歳の時、珍長の養子となる。通称は繁之助。高家・前田家五代の当主。
寛政10年(1798年)11月29日養父珍長(実兄)の隠居により、家督を相続し、表高家となる。同年12月22日将軍徳川家斉に御目見し、家督の御礼を申し上げる。文政7年(1824年)12月12日病死、45歳。市ヶ谷・自證院に葬。法号・信樂院得生寶利大居士。
正妻は西丸御書院番頭・松平図書頭忠命の女・元(けん)、後妻は西丸御側役・菅沼左京亮定候(さだとき)の女・尚(なお)。嗣子は出雲守長義。