南怡の謀叛事件
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南怡の謀叛事件(ナミのむほんじけん)は、睿宗時代最大の獄事で、1468年、承政院の院相勢力が「李施愛の乱」を平定して台頭してきた新興勢力を粛清した事件。
首謀者・南怡は、太宗の四女、貞善公主の息子で、武科に合格し、1467年の「 李施愛の乱」の鎮圧に活躍。さらに、女直の討伐の功で世祖の目にとまり、工曹判書に抜擢される。1468年には27歳の若さで、兵曹判書となり、軍事権を握ることになった。
しかし同年世祖が死去すると、後ろ盾を失った南怡は、院相・勲旧大臣から一斉に批判を浴びる。世祖の息子である睿宗はこの若い王族の青年将軍を妬み、嫌っていたので、南怡を兵曹判書から兼司僕将に降格した。そんな時、南怡と同じく「李施愛の乱」で登用された柳子光が、睿宗に南怡が謀叛を企てていると告発し、逮捕された南怡はきびしい尋問の末に、謀叛の計画を認めた。計画には、領議政・康純も関与。事件は大規模な粛清へ発展し、南怡・康純・曹敬治・文孝良(女真族出身の将軍)のほか、約30人の武官が処刑され、その一族が奴婢に落とされた。
壬辰倭乱以降、一部の野史はこの事件を、のちの士禍の黒幕ともなった奸臣・柳子光による捏造事件だと指摘。南怡将軍の武勇は民間にも知られ、鬼神として神格化され、信仰の対象ともなった。また、純祖の時代に、後孫の上疏により南怡の名誉は回復された。