司馬イツ
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司馬遹(しば いつ、278年 - 300年)は、中国の西晋の皇族。字は煕祖。諡は愍懐太子(びんかいたいし)。第2代皇帝恵帝の長子。生母は謝才人。
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[編集] 略要
[編集] 生涯
幼い頃から聡明であり、祖父の武帝が城下の火事を高楼から眺めていると、「このような時は用心すべきです、皇帝の姿をこのように照らし出させてはなりません」と言って武帝の裾を引いたという。武帝が愚鈍な恵帝を後継ぎにした背景には、この愛する孫に対する過大な期待もあったと言われている。
父の即位と共に皇太子となるが、恵帝の皇后である継母の賈后とは不和であり、司馬遹は夫に代わって権力を牛耳る賈后を嫌っており、また賈后は、自分に実の息子がいないことから司馬遹の即位後に権力の座を追われ抹殺されることをおそれていた。
司馬遹は剛毅な性格であり、長じてはあまり学を好むことなく、宮中で自ら露店を作り商人の真似事をし、商品を自らの手で計って一分の狂いもなかったという。また、行ないを改めるように求めたり、また賈后を排除するように進言する臣下の言を聞かず、それどころか諌言した臣下の絨毯に針を仕込むという嫌がらせまでしていた。これらのことから、司馬遹の幼い頃の評判は徐々に落ちていったという。もっとも、これらの逸話については、元来利発だった司馬遹が継母である賈后に排除されることをおそれてわざと凡庸なふりをしていた説が有力である。
賈后は当初のうちはこれらの司馬遹の不行状を最初は煽っていたが、そのうち不安が募ってしまい、継子の司馬遹を排除しようとし、無理矢理に司馬遹に大量の酒を呑ませ、泥酔して前後不覚の彼に謀叛文を書き写させた。
299年冬11月に、こうして無実の謀叛の罪を着せられた司馬遹は、即座に皇太子の地位を追われ庶人に落とされたが、未だ人望があったことから処刑することまでは出来ずに幽閉された。
翌300年春3月、賈后は司馬遹の暗殺を決意し、太医令の程據に命じて、毒薬を飲むのを拒んだ司馬遹は薬杵(やくしょ、薬を調合する棒)で無惨に撲殺された。享年24。
彼の死後、賈后は司馬懿の息子である趙王司馬倫と恵帝の従弟である斉王司馬冏により殺害され、八王の乱が始まった。亡き司馬遹は復権されて愍懐太子の諡を贈られる。その後、彼の息子3人が相次いで皇太孫となるが、相次いで夭折し、司馬衷・司馬遹父子の血統は途絶えた。
[編集] 宗室
[編集] 子
- 南陽王司馬彪(道文)
- 濮陽哀王司馬臧(敬文)
- 襄陽王・沖太孫司馬尚(敬仁)
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