司馬イ
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司馬瑋(しば い、271年 - 291年)は、中国の西晋の皇族であり、八王の乱の「八王」の一人。字は彦度。初代皇帝武帝の第5子。生母は審美人。
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[編集] 略要
[編集] 生涯
最初始平王に封ぜられ、その後楚王に移った。武帝の死後、外戚の楊駿らが誅殺された際に功があった。
当時、汝南王司馬亮と衛瓘の二人が皇帝恵帝を輔佐していたが、彼らは、司馬瑋は若く果敢な性格だが情がなく厳しいところがあり、重要な役職は任せられない、として中央の職から逐おうとした。このため、司馬瑋は彼らを恨んでいた。 一方、賈后にとっても、自らが実権を握るために彼ら二人は邪魔な存在だった。賈后に二人が謀反を企てていると吹き込まれた恵帝は司馬瑋に密勅を送り、彼らを除くように指示する。指示に何の疑いも持たないまま、司馬瑋は詔勅に基づくと信じて挙兵して、司馬亮と衛瓘を誅殺した。 しかし、二人を殺害した直後、手のひらを返したように、恵帝(そして、それを裏から操る賈后)は、司馬瑋は詔を偽って無法に彼らを殺害したと称し、今度は司馬瑋を捕らえ、間もなく処刑した。21歳だった。刑場で司馬瑋は、詔勅を見せつつ冤罪を訴え涙したという。
正史の列伝の人物評によれば、司馬瑋は施すこと多く、民衆の心もつかんでおり、その死を聞いて涙しないものなく、人々は祠を立てて祀ったという。しかしその一方、短慮で賈后に簡単に騙されて結局その命を失ってしまった、という軽薄さは否定のしようがなく、武断ではあるが政治的な能力は低かったと言わざるを得ないだろう。
[編集] 宗室
[編集] 子
- 襄陽王司馬範
- 毗陵王司馬儀(長兄・司馬軌の養子)
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