吉田填一郎
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吉田 填一郎(よしだ しんいちろう、1946年4月25日 - )は、ラジオ日本のアナウンサー・編成局長。千葉県出身。千葉県立千葉高等学校、中央大学経済学部卒業。
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[編集] 来歴・人物
1969年に日本テレビのアナウンサーとして入社して以来、プロ野球とゴルフを中心としたスポーツ中継アナウンサー一筋に活動してきた。2003年末に日本テレビと資本関係にあるラジオ日本に出向し、「ラジオ日本ジャイアンツナイター」で初めてラジオでの実況を担当。2004年度シーズンオフには冠番組・「吉田填一郎の巨人王国」を担当した。現在はラジオ日本ジャイアンツナイターのほか、「ジー・エム・エー・サタデーナビゲーション」(毎週土曜日・8:00~8:30)のパーソナリティを務めている。
ラジオ日本のプロフィールページには『ラジオ日本・エグゼクティブアナウンサー』と記してある。
[編集] エピソード
- 日本テレビ在籍時、1994年の日本シリーズ(読売ジャイアンツ対西武ライオンズ)第6戦を担当。優勝決定時の「全員野球の長嶋ファミリーは見事天下を獲りました」と実況(決定の瞬間は見逃し三振で、最終打者は垣内哲也。胴上げ投手は槙原寛己)。
- 2000年のON対決第6戦でも実況を担当し、「20世紀最後を飾ったのは、東京、読売、巨人軍!(中略)長嶋監督、64歳、背番号3、日本一の胴上げです!」のフレーズで読売ジャイアンツの日本一を伝えた(決定の瞬間は空振り三振。最終打者はメルビン・ニエベス。胴上げ投手は岡島秀樹)。
- 1987年のシーズン、首位を走り優勝も近くなった読売ジャイアンツが広島東洋カープ戦(9月8日、後楽園球場)で、駒田徳広が当時広島の守護神だった津田恒実から起死回生の同点ホームラン(試合も5対5の引き分け)を放った際の「駒田 駒田 コマダ!!」の絶叫は名実況で今でもマニアの間で語り継がれている。
- 1989年の日本シリーズでは、第5戦の実況を担当したが、原辰徳が勝負を決める満塁ホームラン(投手:吉井理人)を放ったときに、当時読売ジャイアンツの三塁コーチだった近藤昭仁(現・読売ジャイアンツ統括ディレクター)と原が抱き合う様を見て興奮のあまり「やったー!汚名返上!名誉挽回!今、3塁キャンバスを回って牧野コーチと抱き合った!」と近藤を牧野茂(故人)と間違えて実況するという失態を犯したことがある(試合終了後のハイライトで視聴者に謝罪した)。
- この他にも、1983年に青木功が劇的なチップイン・イーグルでアメリカツアーにおける日本人選手初優勝を決めたハワイアンオープン・ゴルフや、1989年の第23回スーパーボウル(マイアミ・ジョー・ロビー・スタジアム)でジョー・モンタナ(サンフランシスコ・フォーティナイナーズ・クォーターバック・当時。この時の対戦相手はシンシナティ・ベンガルズ)が演出した逆転劇(モンタナマジック)の実況を担当した(この時のゲスト解説に浪人時代の長嶋茂雄が出演。また、ハーフタイムショーには江崎玲於奈(1973年ノーベル物理学賞を受賞した物理学者)、ザ・デストロイヤー、スタン・ハンセン(プロレスラー)、リサロッテ・ノイマン(プロゴルファー)、ウォーレン・クロマティ(読売ジャイアンツ・当時)が飛び入り出演した)。
- 大学の先輩でもある小川光明と並び、日本テレビの名物スポーツアナウンサーのひとりであり、プライベートでも熱狂的な読売ジャイアンツファンとして知られている。ちなみにラジオ日本の中継やシーズンオフの番組では水野雄仁とコンビを組むことが多い。また、仁志敏久のことを「My敏久」と呼んでいた(現役の読売ジャイアンツの選手の中ではお気に入りだったそうだが、2006年オフに仁志が横浜ベイスターズへ移籍したため、今後、実況で「My敏久」と呼ぶことはまずないと見ていいだろう)。