塩冶高貞
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塩冶 高貞(えんや たかさだ、生年不詳 - 興国2年/暦応4年4月3日(1341年4月19日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。父は塩冶貞清。官位は左衛門尉・壱岐守・近江守。通称を大夫判官と称し、俗に塩冶判官(えんやはんがん)と呼ばれる。
塩冶氏は近江佐々木氏の有力庶家。佐々木高綱の弟義清が出雲・隠岐守に任ぜられたことが起源。
鎌倉幕府においては出雲国守護であった。元弘元年(1331年)、元弘の乱で敗れた後醍醐天皇は隠岐に配流される。監視役は隠岐守護である一族佐々木清高が務めた。元弘3年(1333年)、隠岐を脱出し、名和長年らと伯耆国で挙兵した後醍醐天皇にしたがって入京している。本宗家の佐々木道誉が足利高氏と連携をとり、討幕運動に参加したとか考えられていることから、高貞も佐々木道誉の指示に従って行動していた可能性は高い。
建武2年(1335年)の中先代の乱後、関東で自立した足利尊氏を討つべく東国に向かう新田義貞が率いる軍に佐々木道誉と参陣する。箱根竹ノ下の戦いでは佐々木道誉と共に新田義貞軍から足利尊氏方に寝返り、室町幕府においては出雲国と隠岐国の守護となった。暦応4年(1341年)3月突然京都を出奔し出雲に向かうが、高師直の讒言により謀反の疑いをかけられ、幕府の追討を受けて播磨国蔭山(現在の兵庫県姫路市)で自害した。高師直の讒言の原因については、師直が塩冶高貞の妻に恋心を抱き、恋文を吉田兼好に書かせて彼女に送ったが拒絶され逆上したためとも言われているが、真相は不明。これにより、高貞の師弟殆どが共に討ち取られるか没落した。高貞の子と伝えられる貞宗が南条氏を称して伯耆国人として栄える他、高貞の弟時綱とその子孫が将軍の近習として生き残る。また、高貞没落後、出雲守護となった同じく佐々木氏庶流尼子氏の尼子経久三男興久が塩冶氏を名乗っている。
人形浄瑠璃、歌舞伎の仮名手本忠臣蔵では、赤穂浪士事件を直接描けず、舞台を室町時代に変えてこの事件を描いているが、巷間に流布した塩冶高貞とその妻顔世御前、そして高師直にまつわる物語を芝居の発端として取り入れている。そして、浅野内匠頭は、塩冶判官の名で登場することになっている。
カテゴリ: 鎌倉時代の武士 | 南北朝時代の人物 (日本) | 1341年没