夏侯尚
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夏侯尚(かこうしょう、185年?-225年?)は、魏の武将。魏の皇族である曹一族の宗族である。字は伯仁。曹操と夏侯淵の甥に当たる。魏の将軍として活躍をした。
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[編集] 略要・人物
叔父の夏侯淵に認められて若くして曹操に仕え、軍司馬となる。後年に曹操が魏王になった時は黄門侍郎となった。やがて、昌陵亭侯に封じられる。
“いとこ”である曹丕とは君臣関係というよりは親友関係のようだったらしく、その下で重用されて要職に就き、最終的には昌陵郷侯・征南大将軍となり、荊州の軍権を委ねられ、対呉戦線を任されるにまで至った。孫権が曹丕に臣従を申し込んで来た時、彼はこれを信用せず、徐晃と共に逆に曹丕に対して今こそ呉に侵攻すべきあると進言したが、さすがに、これは容れられなかった。
後に愛妾の死から重病となり、40代くらいで死去した。曹丕から、その死を惜しまれたと言われている。諡号は悼侯。
演義では、黄忠と戦って敗れて捕らえられ、敵将の陳式との捕虜交換時でも彼は背後に黄忠から射撃され背中に重傷を負うなど、徹底的なやられ役の凡将として描かれているが、実際は智勇兼備の名将であったのである。
[編集] 宗族
[編集] 妻妾
- 徳陽郷主(曹真の妹)
[編集] 子女
- 夏侯玄(太初)
[編集] 兄弟
- 夏侯儒(俊林、定説では弟、従弟の説あり)
[編集] 甥
- 夏侯奉(弟の子、一説で夏侯儒の子で夏侯本の父)
[編集] 従孫
- 夏侯本(弟の孫で、昌陵亭侯を継ぐ)