大宝寺義氏
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大宝寺 義氏(だいほうじ よしうじ、天文20年(1551年) - 天正11年3月6日(1583年4月27日))は、戦国時代の大名。出羽大宝寺氏の当主。大宝寺義増の長男。武藤義氏とも呼ばれ越後の上杉謙信と縁を結び上杉氏を名乗ったこともある。(山形県史)
義氏が父の後を継いだ頃、大宝寺氏は最上義光の侵攻に悩まされていた。このため、義氏は1574年に最上氏と対抗するために伊達氏と手を結ぼうとしたが、不首尾に終わっている。
1579年、当時の天下人であった織田信長に馬や鷹を献上して誼を通じることで最上氏と対抗しようとした。これにより、義氏は信長から屋形号を許されるほどの栄誉を受けた。しかし信長死後の1583年、最上義光と内通した家臣の東禅寺義長の裏切りに遭って殺されてしまったのである。
義氏は武勇に長けていたが、それをいいことに粗暴な振る舞いが多かったため、『悪屋形』と呼ばれていたとも言われている。だが、一説では権力の強化によって戦国大名化する過程で権力の中枢から排除された羽黒山などの宗教勢力や東禅寺氏ら親最上派勢力による中傷とする見方もある。