大東旭
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基本情報 | |
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本名 | 大東 旭(おおひがし あきら) 慎 鏞旭(シン・ヨンウク) |
あだ名 | - |
階級 | スーパーウェルター級 |
国籍 | ![]() ![]() |
誕生日 | 1970年4月10日 |
出身地 | 日本国、大阪府 |
命日 | |
死地 | |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 50 |
勝ち | 39 |
KO勝ち | 26 |
敗け | 8 |
引き分け | 3 |
無効試合 |
大東旭(おおひがし あきら、1970年4月10日 - )は日本の元ボクサーで現K-1ファイター。在日韓国人で韓国名は慎 鏞旭(シン・ヨンウク)。体重70kg。血液型A型。大阪府出身。チーム・クラウド所属。破壊力抜群のフックが得意技。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] ボクサー時代
母子家庭出身。高校生でプロボクサーとなる。
日本スーパーウェルター級王座を5度目の挑戦で掴み、初防衛戦で防衛に失敗するが、その後再奪取。10度の防衛に成功する。 WBC世界スーパーウェルター級5位、WBA世界スーパーウェルター級8位にもランクされる実力者であった。
2001年に大東はWBC世界スーパーウェルター級王座への挑戦が決まったが、オスカー・デラホーヤに挑戦権を奪われ、大東の王座挑戦は立ち消えとなってしまう。
2003年12月に大東はボクシング界から引退する。大東は引退に未練があったようで、K-1デビュー戦前に行われたテレビインタビューで、「言うたろかな思いましたよ、『引退なんかしません、まだまだ戦います』って」と語っている。
[編集] K-1時代
ボクシングに自分の全てを捧げていた大東は、引退後生きがいを失ってしまう(「燃えつき症候群」)。同時期に最愛の母が他界したこともあって、大東はしばらくの間酒浸りの自堕落な生活を送ってしまう。しかし、大東は兼ねてから興味を持っていたK-1に転向することを決意。
2005年10月12日にアルバート・クラウスとの対戦が決定し、大東は執念の減量を敢行し、酒太りした83kgの体から、およそ1ヶ月でK-1MAX規定体重である70kgにまで落とした。試合では、ボクシングシューズを履いて試合に臨み、序盤は持ち前のパンチで相手を追い込む場面も見られたが、ローキックを何発も当てられKO負けとなった。
同年大晦日では、魔裟斗と対戦。急なオファーだったせいもあってか(計量までに契約体重までに落とせず70kg超過のウェートオーバーだった)、いいところが出ずにローキックでKO負けを喫した。
2006年2月にK-1MAX日本代表決定トーナメントに出場し、総合格闘家の上山龍紀と対戦するも、上山のトリッキーな戦法に翻弄され、判定負けを喫する。
大東がK-1デビュー後程なくして、ボクシングの権威が他の格闘技に脅かされていると危機感を持った西日本ボクシング協会は「K-1や総合格闘技等に出場するボクサーは、引退後のセコンド、トレーナーライセンス、ジム設立の許可を一切剥奪する」との宣言を発表し、大東はボクシング界から半ば追放の身となってしまう。
[編集] 戦績
- プロボクシング: 50戦 39勝 26KO 8敗 3分
- プロキックボクシング: 3戦 3敗
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 日本のボクサー | 日本のキックボクサー | 1970年生 | 大阪府出身の人物