太閤ヶ平
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太閤ヶ平(たいこうがなる)は鳥取県鳥取市百谷字太閤ヶ平にある戦国時代の付城(前線基地)。天正9年(1581年)、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による第二次鳥取城攻撃の際に造営された。1957年(昭和32)秀吉の陣城跡は鳥取城と並び国の史跡指定を受けている。
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[編集] 歴史
- 織田信長の命を受けて中国経営に邁進する羽柴秀吉は、一度支配下に入れておきながら再び毛利氏側に立った因幡国鳥取城の攻略を決意し、天正9年6月25日に3万の大軍を率いて居城・姫路城を進発した。7月12日には早くも鳥取城の包囲陣が完成している。対する鳥取城には毛利氏から派遣された勇将・吉川経家が、2千の将兵とともに守りを固めていた。
- 秀吉は標高263mの鳥取城の東方・標高252mの帝釈山上に本陣を構えた。羽柴秀長(のちの豊臣秀長)を初めとする配下の諸将たちが、毛利方の鳥取城・雁金山城・丸山城の3つの出城を楕円状に取り巻いて、山嶺から城下まで延長12㎞におよぶ長囲の陣を敷いた。秀吉軍は完全包囲によって城内の糧食を断つ持久戦の構えを取るとともに、毛利方の援軍を予測し、毛利方主力との決戦も想定した配陣となっている。
- 攻城戦は4ヶ月に及んだ。秀吉の巧みな経済封鎖によって食糧の不足していた鳥取城内では、籠城2ヶ月目にして早くも食糧は尽き、牛馬や壁土、果ては餓死者の人肉まで奪い合うという飢餓地獄が現出した。城将・吉川経家は惨状を見るに忍びず、自らの命に替えて城兵を救うという条件で10月25日に城下の真教寺で自刃、鳥取城は開城し包囲陣は解かれた。
- 鳥取城を落とした秀吉は、城将として宮部継潤を入れ、次いで伯耆国に進み、馬の山まで進攻していた吉川元春と対陣している。しかし冬を迎えるとともに、毛利方の装備が十分なことを知った秀吉は急遽撤兵、11月8日に姫路に帰城している。その後、秀吉が因伯の地を訪れることはなかった。
- 秀吉の本陣が置かれた帝釈山は『本陣山』と呼ばれるようになり、現在はハイキングコースが設けられている。また本陣跡裏手の広場には、マイクロウェーブの中継所がある。
[編集] 遺構
羽柴秀吉が本陣を置いた帝釈山を扇の要として、南西方向の栗谷と北西方向の円護寺、さらに浜坂集落にかけて羽柴秀吉配下の諸将の陣城跡や規模の大きな土塁・竪堀・空堀が残る。戦国末期の陣城群として大変貴重な遺構である。しかし史跡指定を受けていない円護寺地区とその近くの八幡山、浜坂地区は近年のベッドタウン化により宅地造成が進んでおり、多くの陣城が消滅の危機に瀕している。
[編集] 太閤ヶ平
羽柴秀吉の本陣跡で、鳥取城本丸から1.4㎞東に位置する帝釈山頂にある。内陣は東西47m、南北36mで、大手虎口が南口、搦手虎口が東側に開かれている。西側の土塁上の両端に各1ヶ所ずつ合計2ヶ所の櫓台がある。大手口両側には水が貯えられたと見られる薬研堀が掘られている。搦手虎口の外には兵馬の駐屯地があったと見られる広場があるが、現在ここにはマイクロウェーブの中継所が立てられている。本陣を囲んで大小の削平地が十数段に渡って築かれ、本陣足元を完ぺきに防備している。
- 羽柴秀長陣
- 秀吉の弟・羽柴秀長の陣所は秀吉本陣の北西、標高216mの通称大平(おおなる)の山上にある。東西に細長い長さ70mの陣所である。東屋風の展望台が建てられている。
- 空堀
- 秀長陣から秀吉本陣にかけて、延長700mに及ぶ大規模な空堀が構築されている。これは秀吉が毛利本隊との決戦を想定した防衛ラインと考えてよい。
[編集] 栗谷南嶺之陣
秀吉本陣のあった帝釈山頂より南西方向に伸びる栗谷の山嶺には、10ヶ所に及ぶ付城群の遺構が明確に残る。秀吉本陣近くは彼の直臣が守りを固めたと考えられる。長谷川秀一陣、堀尾吉晴陣、仙石秀久陣のほかは守将が伝えられていないが、遺構の保存状態はきわめてよく、戦国末期の付城群を調査研究する上で、大変貴重な遺構である。
[編集] 水道谷奥之陣
長田神社から分け入っていく谷の奥、鳥取城に相対する最前線に位置する小砦群。ここも遺構の保存状態が良好である。
[編集] 円護寺之陣営
桑山重晴、垣屋光成らの諸将が陣を構えた。標高120mの尾根上に全長380mに渡り、高さ1~2mの土塁が連なっている。土塁の裏側は幅30m以上の広い削平地となっている。これも毛利軍との決戦を想定した迎撃線と考えてよい。円護寺地区は宅地化が進んでおり、すでに3つの付城跡が消滅している。
- 三好信吉陣
- 後に秀吉の養子となった三好信吉(のちの豊臣秀次)の陣。一説によると宮部継潤の陣所跡ともいわれる。鳥取城の出城だった丸山城に近い八幡山にある。完全な土塁方式の陣城が残っているが、これも宅地造成により消滅の危機にある。
[編集] 浜坂之陣営
覚寺から浜坂にかけての丘陵上に付城が連なっていたが、宅地化や水道設備の建設などで破壊が進行している。
- 垣屋恒総陣
- 青木勘兵衛陣
- 宅地造成により消滅した。
[編集] 平地陣
平地陣は鳥取の城下町や耕地となったため、遺構は残っていない。以下の諸将が湊川(旧袋川)沿いに展開した。
- 木下家定 鳥取市中町
- 中村一氏 鳥取市掛出町
- 少阿弥 鳥取市掛出町
- 山名豊国 鳥取市榎町、鳥取市役所本庁舎付近
- 荒木重堅 鳥取市本町1丁目
- 神子田正治 鳥取市元魚町3丁目
- 蜂須賀家政 鳥取市玄好町、玄好遊園地付近
- 黒田孝高 鳥取市相生町1丁目
- 木村定重
- 加藤光泰
- 杉原家次 鳥取市江津
- 吉川平助 鳥取市江津。守将・吉川平助は防己尾城攻城戦で戦死した。