奈佐日本之介
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奈佐 日本之介(なさ やまとのすけ、なさ にほんのすけ ? - 天正9年10月24日(1581年11月20日))は、戦国時代から安土桃山時代の中国地方の武将・海賊。
[編集] 略歴
奈佐日本之介は但馬国を根拠地とした海賊で、山陰地方沿岸を勢力圏におさめていた。天正期に入り、織田信長の勢力が中国地方まで伸張し、信長によって海賊行為が禁止されるに及んで、奈佐は同じく但馬を根拠地とする海賊・塩冶高清とともに毛利氏に荷担する。しかし旭日昇天の勢いの織田氏には抗すべくもなく但馬を追われ、ついに天正9年(1581年)に吉川経家率いる毛利勢と結んで、因幡国鳥取城において織田氏の中国方面司令官・羽柴秀吉と対することになる。奈佐は鳥取城の北方に位置する丸山に丸山城を築き、塩冶高清の守る雁金山城とともに鳥取城の兵站線を担当した。しかし秀吉の家臣・宮部継潤によって鳥取城-雁金山城-丸山城の食糧補給ラインは遮断され、糧食尽きた鳥取城内には前代未聞の飢餓地獄が出現した。同年9月には毛利氏からの救援物資が海路送られているが、奈佐の軍船ともども織田方の長岡藤孝らによって、千代川河口で撃沈されている。天正9年(1581年)10月、人肉まで食らう鳥取城中の飢餓地獄を見かねた吉川経家は、自らの命と引き替えに城兵の命を救うことを条件として、秀吉に降伏を申し出る。これに対し秀吉は、経家の武勇を惜しんで助命しようとする一方、奈佐および塩冶の海賊行為を責め、二人の切腹を主張して譲らなかった。結局、経家の自刃に先立つ天正9年10月24日、奈佐は塩冶とともに陣所で切腹して果てた。奈佐が守った丸山城の西麓に、奈佐日本之介と塩冶高清それに佐々木三郎左衛門の3名の供養塔がある。
[編集] 外部リンク
- 「鳥取城包囲網と防衛ライン3城(鳥取、丸山、雁金の城)と56陣紹介」で天正9年、羽柴秀吉攻撃時の毛利方および織田方の陣城について、遺構をもとに詳しく紹介している。