孫皓
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孫皓(そんこう 242年 - 284年 在位264年 - 280年)は中国三国時代の呉の第四代皇帝。姓は孫、字は元宗。孫権の三男で皇太子に立てられていたが廃された孫和の子。孫瑾・虔(魯王)・孫充・孫璠の父。
三代目の孫休の死後に擁立され、当初は知勇兼備と期待されていた。孫皓は即位するとすぐに廃された父孫和の名誉回復を行い、大々的な祭祀を行わせ、政府の倉を開いて貧しい人を救ったりした。ところが、刑罰を濫用して多くの家臣を処刑するなど、しだいに暴君ぶりを発揮していくようになる。無理矢理家臣達に酒を飲ませてそれを横から監視させ、少しでも落ち度があれば容赦なく処罰し、265年都を建業(今の南京)から武昌(今の湖北省鄂州市)に移転して大土木工事を行ったり、後宮に何千もの女性を入れて、気に入らない宮女がいると殺して宮殿内に引き込んだ川に死体を投げ入れたといわれている。
その頃、三国のうち蜀は既に滅び、魏では司馬炎による禅譲劇が行われて西晋が誕生していた。しかし晋内部では征呉派と反征呉派に分かれて争いが起きて、呉はしばらくの間は余命を保つことになる。
呉では陸凱・陸抗・陸禕の陸氏(陸遜の家系)が衰退する呉を支え、孫皓も陸凱・陸抗が生きている間は陸氏に手が出せないでいた。晋による激しい侵攻と呉国への反旗を翻した反乱軍の中で陸抗らが何とか持ちこたえていたが、その後も孫皓の暴挙は止まず、民や家臣の心も呉国から離れていってしまう。
274年に陸抗が死ぬと最早晋を押し留めるものは無く、侵攻する晋軍(約20万の軍勢)に対して呉軍の兵士たちは次々と投降して行き、晋の軍勢が建業に迫るという知らせを聞くと、臣下たちに迫られ寵臣の岑昏を斬り味方の士気を上げようとしたがそれも無駄に終わり280年に杜預により建業を陥落させられ、孫皓は蜀の劉禅を見習って晋に降伏し、呉は滅びた。降伏に際して孫皓は家臣達に手紙で、呉が滅亡したのは自分の責任だから、皆は遠慮せずに晋につかえて大いに才能を発揮してくれ、と述べている。
晋に降伏した孫皓は帰命侯と呼ばれて、劉禅と同じく天寿を全うした。
孫皓は三国志に出てくる登場人物の中でも一番残虐な性格と言われ、人の顔の皮を剥ぐなど、ありとあらゆる拷問を行った暴君であったとされる。そのためか陳寿の『三国志』上での評価も最悪であり、「(晋は孫晧の降伏を許さず)腰と首とを分離して(腰斬刑、通常の死罪よりさらに重罪人に適用された)、万民に謝罪すべきであった」と酷評している。
在位中には蜀が滅びる直前に反乱によって晋に占領された交趾(今のハノイ付近)を奪還している。
『世説新語』と言う書物には降伏後、司馬炎にはべっていた孫皓が「南の人は、お前という言葉を用いた詩を作るのが好きだというが、卿も作れるかね」と問われた所、
昔はお前と隣同士
今ではお前の家来だよ
お前に一献進ぜよう
お前の長寿を祝うため
と、詠ったので司馬炎はしてやられたと後悔したと言う。また、晋に降伏後、司馬炎とその娘婿の王済が孫皓の前で碁を打っている時、「どうして人の顔の皮を剥いだのかね?」と司馬炎が尋ねると、王済が碁盤の下で足を投げ出して座っているのを見て、すかさず「主君に無礼を働く者があれば剥ぐのです」と答え、恥じ入った王済が足を引っ込めたという話が残っている。
284年、洛陽で死去。
のちに子の孫充は八王の乱により反乱軍に呉王に祭り上げられた上、殺された。また、孫瑾は東晋の元帝に対し謀反を起こすが、鎮圧され殺された。
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