山中恒
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山中 恒(やまなか ひさし、1931年7月20日 - )は児童文学作家(自らは「児童文学作家」と呼ばれることを好まず、「児童よみもの作家」と称している)。北海道出身。旧制小樽中学(現北海道小樽潮陵高等学校)、早稲田大学第二文学部演劇科卒業。
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[編集] 経歴
北海道小樽市で8歳まで育つ。父親の仕事の関係で神奈川県平塚市に転居するが、戦争中縁故疎開で再び小樽に戻った。その時期に強烈な皇民化教育(山中は「錬成教育」と表現する)を受けたが、それを指導した教員達が日本の敗戦とともに正反対の教育を平然と始めたことに激しい違和を感じる。この体験が大人や教員に対する不信感を生み、その後の山中の作品にも影響を与えることとなる。
早稲田大学に在学中、早大童話会に所属し、児童文学の創作を始める。1960年の「赤毛のポチ」で日本児童文学者協会新人賞を受賞し、児童文学作家として本格的にデビュー。この頃、古田足日・鳥越信・佐々木守らと児童文学の同人誌「小さい仲間」を刊行していた。その後『とべたら本こ』『ぼくがぼくであること』などを発表し、児童文学作家としての地位を不動のものとする。一方、少年時代に受けた戦時教育へのこだわりから、克明な資料と自らの体験から当時の教育状況を明らかにする『ボクラ少国民』シリーズを1974年から刊行した。
1980年代以降は、大林宣彦の映画に原作を提供した作品を執筆。また、『ボクラ少国民』などの流れをくむ戦時期の教育・国民生活を題材にしたノンフィクションも数多く手がけており、妹尾河童の『少年H』の内容を批判した著作は話題となった。
なお、「児童文学作家」と呼ばれるのを好まない理由には、デビュー当時「児童文学者」を称した人々の作風への反発に加え、戦争中に戦争協力的な作品を書いた当時の児童文学作家が、戦後あっさりと「民主」的な作風に乗り換え、共産党に加入する例が後を絶たなかったことに対する反発もあるとされる。
同世代の「戦友」と呼んで『ボクラ少国民』シリーズの執筆にも助力した最初の夫人は急病で失う。そのため『間違いだらけの少年H』などの共著者である現夫人とは再婚である。
[編集] 作品
- 子供向け
- 『とべたら本こ』(1972年にNHK少年ドラマシリーズでドラマ化されている)
- 『ぼくがぼくであること』(1973年にNHK少年ドラマシリーズ、2005年にNHK天才てれびくんMAX内でドラマ化されている)
- 『6年2組の春は...』(1975年にNHK少年ドラマシリーズでドラマ化されている)
- 『あおげばとうとし』(1976年にNHK少年ドラマシリーズでドラマ化されている)
- 『あばれはっちゃく』(1970年、1979年から85年までテレビ朝日でドラマ化されている)
- 『おれがあいつであいつがおれで』(1979年)
- 『なんだかへんて子』
- 大林宣彦監督映画「さびしんぼう」原作(尾道三部作 第3作)
- 『はるか、ノスタルジィ』(大林宣彦監督により映画化)
- 『とんでろじいちゃん』(野間児童文芸賞受賞)
- 大林宣彦監督映画「あの、夏の日」原作(新尾道3部作 第3作)
- その他
- 歌曲(作詞)
- はしれ超特急
[編集] 社会運動
講演を通じ、反戦を訴えている。「日本共産党は腰抜けだ!」が持論であり、母校・早稲田大学では、革マル派のフロント組織である学内サークルから講演を依頼されている。
[編集] エピソード
- 1944年に旧制中学の面接試験を受けたとき、戦争の現状を問われて「負け戦です」と答え、付き添いの教師をうろたえさせる。彼としては苦戦しているという率直な気持ちを述べたつもりだった。付き添った教師は不合格をおそれたが、結局は合格した。
- 「ボクラ少国民」シリーズを執筆中だった頃、自宅に若い右翼が脅しにやってきたが、当時の夫人が「じゃあなた教育勅語を暗唱できる?」と尋ねたところ、右翼は何も言えずに退去したという。
- 花森安治による創作説が流布していた標語「欲しがりません、勝つまでは」の作者が、実際は当時東京に在住していた女子小学生(実際には父親が創案し、彼女の名前で投稿した)であった事実を「ボクラ少国民」シリーズにおいて明らかにした。
- 1980年に、古書市で東条英機首相の手による陸軍秘密文書の『写し』を発見していたことが、2006年8月に明らかになった。