延沢満延
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延沢満延(のべさわ みつのぶ、天文13年(1544年) - 天正19年(1591年))は最上氏の家臣。延沢満重の子。
もとは天童氏に仕えていたが、最上義光の侵攻に遭って服属した。最上八盾の1人、延沢城主。義光は満延の武勇を誉め、満延の息子又五郎に自身の娘松尾姫を娶わせたという。1591年11月に京都で死没。その死には異説があり、一説では病死ではなく、そのあまりの猛勇に恐れた義光に毒殺された説もある。最上義光が戯れて捕まった桜の木を、義光を引き離そうとして根元から引き抜いたという逸話がある。
天童筋八楯と称されたうちのなかで、最も武勇に長けていたといわれている。