恵文王 (秦)
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恵文王(けいぶんおう ? - 紀元前311年 在位紀元前338年 - 紀元前311年)は、中国戦国時代の秦の31代目君主、初代の王。孝公の嫡子。姓は嬴、諱は駟。武王の蕩と昭襄王の謖の父。
[編集] 略要
父の孝公の方針を受け継ぎ、巴蜀(四川)を征服して秦の国勢を更に高めた。在世時に秦としては初めて王号を唱えたので、王号採用以前の恵文君の称号でも呼ばれる。
[編集] 生涯
太子時代に商鞅の法に触れて、その罰として傅役(もりやく)の公子虔と教育係の公孫賈がそれぞれ鼻削ぎと刺青の刑にされ、もう一人の太子侍従の祝懽が処刑された過去があった。太子はそのことを恨み、孝公の死後に商鞅に罪を被せ、商鞅の死体を車裂きの刑に処した。しかし商鞅の新法はそのまま使用し、基本的に国政の方針は孝公時代より変えていない。
秦は商鞅の改革により、大幅に国力を増強しており、周辺諸国はこれを恐れ、本来なら主筋であるはずの周から贈り物が贈られるほどであった。
この国力を元に謀略家である張儀を登用して、度々魏・斉・楚などを討ち、紀元前324年に王号を唱えた。
秦を畏れた諸国は紀元前318年に韓・趙・魏・燕・斉の五ヶ国で連合軍を作り、秦に攻め込んできたが、恵文王は弟の樗里疾(ちょりしつ)に命じてこれを破り、その兵士8万の首を切った。
また紀元前316年には秦の領域である関中の後ろに大きく広がる巴蜀を併合する。この地域には三星堆文化を元とした独自の文化を持った国が栄えており、周に対して服属していた。征蜀の前に張儀と司馬錯に対して蜀を取るべきかどうかを諮問したところ、張儀はこれに反対して国の中央である周を取るべきと主張し、司馬錯は蜀を取って後背地を得るべきだと主張した。結局、蜀を取った事で大きな穀倉地帯を得、更に長江下流にある楚に対して河を使った進軍・輸送が可能になり、圧倒的に有利な立場に立った。
そして紀元前312年、楚を討って漢中地方を奪う。この時に張儀の策略により、楚の懐王を捕らえる事に成功する。
翌年に死去。商鞅を憎みながらもその法は保持した事は同じく国政改革の旗手であった呉起を殺害した楚がその後、呉起の改革の成果を破棄した事と比べて高い評価がある。また巴蜀を併合した事は秦が最強国となった要因の一つと評価される。