慎機論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
慎機論(しんきろん)は、江戸時代後期の三河国田原藩家老・渡辺崋山が、幕府の対外政策を批判して書いた私文書。蛮社の獄の際、崋山を断罪する根拠となる。
[編集] 成立の経過
1837年にアメリカ商船が日本の漂流民を送還するために江戸湾に近づき、発令中の異国船打払令の適用を受けて発砲され退去させられるという、「モリソン号事件」が起こった。その翌年に評定所記録方・芳賀市三郎が、モリソン号の渡来に関する風説と、この船に打ち払い令を適用することを強く主張した評定所一座の答申案をひそかに持ち出し、尚歯会の同志たちに示す。再来するモリソン号に幕府が撃退策を持って臨むという可能性を憂慮した渡辺崋山は、年来の対外政策への不満を含めて、「慎機論」を著したのである。
[編集] 内容
「我が田原は三州渥美郡の南隅にありて」という藩名を明記した始まりで、小さい藩ではあるが外国の噂なども入ってくることを述べ、モリソン号事件の話題に移る。まずイギリスの宣教師で中国研究家であったロバート・モリソンの人となりを説明し、このモリソンが助手を通して、ロシアが日本を侵略しようとしているらしいという噂を長崎にもたらしたこと、小国ポーランドがヨーロッパの列強に食い荒らされている実状を考えてもモリソン事件を軽く考えるべきではないと説く。
我が国は外国人への扱いが厳しすぎ、レザーノフへの処置が不適切であったためにロシアと紛争が起こったにもかかわらず、「御国政」を変えようとはしないだろう。西洋の各国は中国以上に発達し、新興国アメリカはヨーロッパのどの国よりも強大になっている。西洋と行き来しないのは日本だけである。今までのように漂民を送り届けた船に砲撃するようなことを繰り返せば「同じ人間を迫害するのは、人間といえようか」と西洋諸国に言いがかりをつけられ、国を滅ぼす原因となるだろう。中国は実学を離れ、明末のように典雅風流を尊び、国の危険を忘れているような有様である。
日本とて例外ではなく、今それを偉い人に責め訴えようにも貴族育ちの坊ちゃんばかり、国の実権を握るものは成り上がりの汚職役人、儒学者は心だけあって現実に動こうとはしない。「今夫れ此の如くなれば、ただ束手して寇を待むか」我々は手をこまねいているほかないのか、という絶望の言葉でこの小論は終わる。
[編集] 錯誤
情報が限られている中でやむを得ないながら、崋山は
- モリソン号がイギリスの船であり、ロバート・モリソンは日本との交易を望んで漂流民を送り届けようとした
- 評定所一座の「外国船は、事情にかかわらず打ち払うべきである」との答申は、そのまま幕府の方針を示すものである
という2つの誤認のうえで、憤激のあまり「慎機論」を著した。事実は、中国研究家のモリソンはモリソン号とは関わりなく、幕府の方針はモリソン号が再来した場合は打ち払いの対象とせず、漂流民をオランダ船に託して帰国させるというものだった。
崋山は執筆の途中で、内容が不敬にわたることを気遣い筆を断ち、未定稿のまま公開しなかった。それが蛮社の獄の際、幕吏による家宅捜索で発見され、日の目を見ることとなった。写本により伝わるが、もともと「乱稿」なために、決定的な底本がないという。