手塚治虫
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手塚 治虫(てづか おさむ、てづか おさむし(初期のみ)。本名:手塚 治、1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日)は、日本の漫画家、アニメーター、医師。大阪府豊中市に生まれ、兵庫県宝塚市で育つ。医学博士の学位を持つ。戒名は伯藝院殿覚国蟲聖大居士。日本アニメの先駆者、漫画の神様としても有名。
目次 |
[編集] 人物
大学時代から、漫画家として活動を始める。漫画家という職業が社会的に評価が大変低かったこともあり、医師との二足のわらじをはくことも考えたが、母の「好きなことをやりなさい」ということばで専業漫画家の道を選んだエピソードは有名。ただしこの他に、担当教官に医者よりも漫画家に向いていると言われた、血を見るのは苦手だった、などといった話も伝わっている。1947年に発表した『新宝島』は、漫画に映画的スペクタクルな表現を導入した先鋭的な作品で、藤子不二雄、石森章太郎(後に石ノ森章太郎)ら後進に極めて大きな影響を与え、現代日本における漫画・アニメの基礎が築かれるなかで大きな役割を果たした。
風貌や実績から温厚で人格者というイメージがあるが、石ノ森章太郎や大友克洋ら若い才能に対し、敵愾心を燃やす一面を見せたとも言われている。
いかにも漫画的・人間的なエピソードが紹介されることもある。
- 松本零士など後進の漫画家などの客人にいたずらでチョコレートうどんを食べさせたことがある。
- 締切前に担当編集者の目を盗み、映画鑑賞のためなどと称して度々逃亡している。阿蘇山にまで逃げたことがある。
- 深夜「メロンを買ってこなければ続きを描かない」などと担当編集者に無理難題を言い出した(当時、コンビニなどは無かった)。
- 寝ているところを編集者に叱責されると、「寝ていたのではない。横になって疲れをとっていただけだ」と言い張った。
上記のように、担当の編集者からすれば目に余る行動も多かったらしく、当時の担当編集の中には手塚の人間性を厳しく糾弾する例も見られたようだ。殺人的スケジュールに追われていたため同情すべき余地は多々あるとも言われるが、依頼された仕事はほぼ断らずに受けたのは、スケジュール管理能力の欠如以外の何物でもない。ただし、その事がわかっていながら、新雑誌の創刊毎に「彼が誌面にいないと売れない」という理由でいくつも掛け持ちさせ、後輩漫画家よりも安い原稿料でコキ使い、結果的に心身ともに消耗させた編集者たちの責任も大きい。
[編集] 業績
日本における本格的ストーリー漫画の開祖と言われる。しばしば舞台劇的だった漫画を映画的に変革したとも評されるが、日本でも第2次世界大戦前から赤本漫画の世界で、映画的にコマ割りされた漫画は存在していることが指摘されており、何もかも手塚治虫が発案したわけではない。戦時中の1938年に内務省から「児童読物ニ関スル指示要項」が出され、10年近く表現規制がなされていたため、戦後の少年たちにとって手塚治虫の『新宝島』の登場は衝撃的だったのである。そして、この衝撃は藤子不二雄らトキワ荘グループに共有され、彼らが語ったり自伝に書かれたりすることで、1970年代から漫画ファンの間に流布され、神話化していったと言われる[1]。
中央での大手出版社の月刊少年誌に掲載される漫画は当時は4ページから6ページ程度だったのに対して、関西の赤本漫画界を出発点にした手塚は100ページ以上のストーリー漫画を描き下ろしてヒットを飛ばした。2年間で12本の赤本漫画を描き下ろした中央の漫画界に進出。これまでのただ面白おかしいだけのマンガではなく、複雑な内面を持ったキャラクターによる悲劇もありうるドラマチックなストーリーを漫画に導入し、漫画を物語を語る手段として、戦後の現代的な漫画の原点を築き上げた人物である。[2]第一人者として亡くなって20年近くなる現在でも生前の功績から「マンガの神様」の異名で崇められている(詳細は後述)。
1954年には専門誌『漫画研究』にアシスタントの求人広告を出し、プロダクション形式をとって大量のアシスタントを雇って作業を分担させ、ひと月に100ページを超える執筆を可能にした。手塚以前にアシスタントを使った漫画家は皆無ではないが、このような大々的なプロダクション形式をとったのは、寺田ヒロオや藤子・F・不二雄によれば、日本では手塚が最初である。この手法が用いられたことにより、週刊少年サンデーのような週刊漫画雑誌の刊行が可能になった。この週刊連載化は、多くの漫画家にとって過酷な生活を強いる原因ともなっており、下記に挙げる「アニメの功罪」と合わせて、手塚への批判の一つになっている。
アニメ制作プロダクションを立ち上げ、日本初のテレビ放送用の連続アニメーション番組『鉄腕アトム』を制作した。手塚の手法やビジネスモデルは、後の日本製アニメの制作に(良くも悪くも)大きな影響を与えた。
それまで政治風刺などの一コマ物が多かった日本漫画界に新地平を切り開き、「マンガの神様」と呼ばれる(一方、手塚本人はウォルト・ディズニーをそう呼んでいる)。
[編集] 評価
開高健は、1964年に『マンガの神様手塚治虫』という文を発表しているが、この時代にはその呼称はあまり普及しなかった。手塚をマンガの神様と呼ぶのは、手塚の作品『がちゃぼい一代記』(1970年)の登場人物、マンガの神様にちなむ。この作品中で、手塚は、マンガの神様が自身に乗り移ったという表現をしている。また、現在では数々の名作を残してきたその超人的な実績が、「漫画の神様」と呼ばれる所以でもある。
この作品は雑誌掲載後しばらく日の目をみなかったが、1977年に単行本『紙の砦』に収録された。同年12月、久里洋二、犬塚進らが相次いで手塚を神様扱いする言及を行い、その後、手塚を指す呼称として普及した。
手塚はこの呼称を好まなかったが、自作中の登場人物の名でもあるため、マンガの神様だと呼ばれても積極的に否定はしなかった(かわりに、自分がマンガの神様なのではなく、マンガの神様が自分に乗り移ったのだ、という意味の弁解を何度もしている)。
没後、マンガの神様という呼称が一人歩きし、神格化されるようになったが、実際にはヒューマニズムの塊のような人物ではなく、もっと人間臭い人だった、とも言われる。手塚自身、自らがヒューマニストと呼ばれることを極端に嫌っていた。
インタビューでは「自分は、そのへんのニヒリスト以上の絶望を持って仕事をしている……はっきりいえばヒューマニストの振りをしていれば儲かるからそうしているだけで、経済的な要請がなければやめる」と強い皮肉を込めて断言している。
多作のため作品の出来ばえに少々むらがあるが、密度の濃い作品を40年以上の期間にわたって大量に残している点で余人の追従を許さず、これも「神様」と呼ばれる所以と見る向きもある。現代の漫画家の多くは、原案、ストーリー展開、作画作業など、多くの部分を自己が抱えるスタッフや雑誌編集者と共同で行っている。手塚の場合、作画などはプロダクション形式で行っていたが、アイデアやストーリーはほとんど自分一人で練り上げていたらしい。手塚の作品ほどのストーリー性の濃い漫画を、月産100ページ超も生み出す漫画家は現在ほとんどいないと言われる。実際に多くの漫画家はアイデアを出すことに多くの時間を費やし、ネームを作るのに精神的な重圧を感じるほど苦しむ。しかし、手塚はある中堅漫画家との会話で「ネームを描くのに苦労して…」と言われると「え? なんで?」と返したというエピソードがあるほど発想に満ち溢れた人間だった。しかし、手塚治虫といえども編集者から度々ネームの修正依頼が掛かり、苦心もしていたようだ。
亡くなった後に、麻生太郎から国民栄誉賞の推薦があったが、「漫画家授与の前例がない」などの理由で授与は見送られてしまった。
2003年から約2年ほど彼の作品だけを集めた雑誌「手塚治虫マガジン」が刊行されたこともあるが、部数の関係上、無期限の休刊となった。 後にこの手塚治虫マガジンプロジェクトは2007年になり、「自分が編集長」となって数ある手塚作品の中から自選した作品を収録できるという非常に珍しい試みを取って「手塚治虫O(オンデマンド)マガジン」として復活することとなる。 余談だが、藤子・F・不二雄作のドラえもんのある話では「一人だけの漫画雑誌なんて聞いた事も無い」と言った発言が載っていたことがある。
[編集] 略歴
- 1928年 - 11月3日、大阪府豊能郡豊中町(現在の大阪府豊中市)で生まれる(本名は明治節の生まれだった事から)。
- 1933年 - 兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)に引っ越す。このころから母とともに宝塚歌劇に親しむ。
- 1935年 - 池田師範付属小学校(現大阪教育大学附属池田小学校)に入学。小学2年生くらいから漫画を描き始め、小学4年の頃に手塚治虫というペンネームを思いつく。最初期には特にディズニー絵本の模写をおこなっていた。またガシャガシャ頭(天然パーマ)などのあだ名でからかわれていた。
- 1941年 - 大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)に入学。教師の目を盗み、自作漫画を校内で回覧したり、戦時中の勤労奉仕先の軍需工場のトイレ(軍事教官用とは隔離されていた)の壁にこっそり自作漫画を貼ったりしていた。
- 1945年 - 北野中学を四修(飛び級)で旧制浪速高校を受験して失敗、大阪帝国大学附属医学専門部(戦前に軍医速成のため臨時に付設された旧制医学専門学校)に入学(1944年浪華高校理乙入学、あるいは大阪大学予科入学と記した資料もあるが、浪華高校も大阪大学予科も実在しない学校)。勤労動員中に6月の大阪大空襲に遭遇し、着の身着のままで宝塚まで帰る。この時の体験は『紙の砦』『どついたれ』などで描かれている。
- 1946年 - 1月4日、『マアチャンの日記帳』(少国民新聞)でデビュー。
- 1947年 - 『新宝島』発表。
- 1950年 - 初連載作品『タイガー博士の珍旅行』(漫画と讀物)。
- 1951年 - 1年留年して大阪大学附属医学専門部(旧制)卒。制度改革により医専が廃止されたため、阪大医専最後の卒業生となる。毎日放送開局時のアナウンサー採用試験に合格。たまたま通りかかり、受けてみたら合格したことを同局の番組『あどりぶランド』で語っている。
- 1952年 - 医師免許取得。『アトム大使』からのスピンオフ『鉄腕アトム』を引き続き「少年」に連載。東京四谷に下宿する。
- 1953年 - 東京都豊島区のトキワ荘に入居。
- 1958年 - 第3回小学館漫画賞受賞(『漫画生物学』『びいこちゃん』)。
- 1959年 - 結婚。結婚相手は、血縁関係のない遠縁の女性でおさななじみ。[3]週刊少年サンデー創刊号から『スリル博士』を連載す。
- 1961年 - 奈良県立医科大学で医学博士の学位を取得。長男・眞が誕生。
- 1963年 - 自ら社長を務めるプロダクション、虫プロダクションを率い、日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作。フジテレビにて1月1日から放送。
- 1965年 - 日本初のカラーアニメシリーズ『ジャングル大帝』をフジテレビにて10月6日から放送。長女・るみ子が誕生。ニューヨーク世界博覧会の特派記者として渡米した際に同会場で偶然、ウォルト・ディズニーに生涯ただ一度の対面を果たす。W3事件。
- 1970年 - 日本万国博覧会にて「フジパンロボット館」をプロデュース。『アポロの歌』に性的描写があるとして、一部地域で発禁に処される。※フジパンロボット館は閉幕後愛知青少年公園(現在・愛・地球博記念公園)に移設され、2005年に愛・地球博でも展示された。
- 1971年 - 虫プロ社長を退任。
- 1973年 - 虫プロ商事・虫プロダクション倒産。経営から退いた後も、手塚は多額の債務保証を行っていたため債権者に追われる身となるが、友人の葛西健蔵(現・アップリカ会長)が後見人となり、版権の散逸は免れた。週刊少年チャンピオンに『ブラック・ジャック』連載開始。
- 1975年 - 『ブラック・ジャック』により第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞。
- 1977年 - 『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』により第1回講談社漫画賞少年部門受賞。講談社『手塚治虫漫画全集』刊行開始。
- 1979年 - 巌谷小波文芸賞受賞。
- 1983年 - 『陽だまりの樹』により第29回(昭和58年度)小学館漫画賞受賞。
- 1984年 - 『ジャンピング』でザグレブ国際アニメーション映画祭グランプリを受賞。
- 1985年 - 『おんぼろフィルム』で広島国際アニメーションフェスティバルグランプリ受賞。
- 1986年 - 『アドルフに告ぐ』により第10回講談社漫画賞一般部門受賞。
- 1988年 - 体調悪化により急遽入院。胃がんと判明する。11月1日、大阪教育大学附属池田小学校にて生涯最後の講演を行う。
- 1989年 - 2月9日、胃がんのため半蔵門病院にて死去。享年60。勲三等瑞宝章叙勲。日本SF作家クラブ主催第10回日本SF大賞特別賞受賞。
- 1990年 - 全業績に対し第19回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。テレビアニメシリーズ『三つ目がとおる』をテレビ東京にて10月18日から放映。
- 1994年 - 兵庫県宝塚市に、宝塚市立手塚治虫記念館が開館する。これのメモリアル公演として宝塚歌劇団花組が第80期生初舞台公演として『ブラック・ジャック 危険な賭け』『火の鳥』を上演。
[編集] 生年月日に関する表記
生前、プロフィールにおいて1926年(大正15年)生まれ、大阪大学医学部卒と称していた。 その理由については、
- 初期の担当編集者が誤って紹介したものを訂正せずにそのまま使った[要出典]
- 月刊誌時代の少年雑誌の他のマンガ家がみな年長だったため。馬鹿にされないため[4]。
- 読者から医学専門部卒を隠すため(臨時医専は3年制で旧制中学校を出て入学すれば21歳で卒業、大阪大学医学部卒と称する為には生年を早める必要があった)[要出典]
など、複数の説がある。
- 手塚の葬式場で享年を見るまで、実年齢を知らなかった親友すら大勢いた。
- 訃報記事の生年は誤記ではないかと思ったファンも大勢いた。
- デビュー時の『少国民新聞』の紹介では「大阪帝国大学医学専門部」「十九歳」と明示があり、年齢が2つずれているのは中央での月刊誌デビュー前の頃からだということが分かっている。この紹介文は、『少国民新聞』編集部の文責で掲載された(ただし、正月早々に掲載されたこの紹介文の文面では「十九歳になったばかりで」とあり、当時一般的に用いられていた数え年による表記とも考えられる。その場合、1928年11月生まれの手塚は1946年の正月で19歳となり、正しい年齢表記であったことになる。もしそうだとすると、一般に使われる年齢表記が数え年から満年齢に切り替わったことを利用して、年齢を偽った可能性もある)。
[編集] ペンネーム
治虫(おさむし)というペンネームは昆虫のオサムシからとったものだが、「~氏」等を付けると「オサムシシ」になってしまうため、読み方を本名の「オサム」に変更したという。デビュー作『マアチャンの日記帳』の紹介では、手塚が編集者にペンネームの読み方を伝えていなかったため、「はるむし」という振り仮名が付けられたこともある。
[編集] 学位取得論文
医学博士号の学位取得論文名は、「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」(タニシの精虫の研究)。 『奈良医学雑誌』第11巻第5号、1960年10月1日、pp.719-735.に所収。
[編集] 家族
妻は手塚悦子(えつこ)。1999年に夫、手塚治虫に関する本を執筆している。
映像作家の手塚眞(本名は真)は長男・長子。プランニングプロデューサー・地球環境運動家の手塚るみ子は長女・中子。舞台女優の手塚千以子(ちいこ(『千夜一夜物語』から命名))は次女・末子。
家族ではないが、手塚の「姪」に、声優の松山薫がおり、手塚作品では、「手塚治虫の旧約聖書物語」の吹き替えをした。
[編集] 最期の言葉
- 「仕事をする。仕事をさせてくれ。」仕事に仕えたいという思いがあった。
[編集] 家系
手塚の曽祖父にあたる手塚良庵は適塾に学んだ蘭方医であり、1857年に東京に種痘館(現在の東京大学医学部の前身)を設立したグループの一人でもある。その生涯は『陽だまりの樹』でフィクションをまじえつつ描かれ、適塾の頃は福沢諭吉『福翁自伝』に記録が残る。幕府歩兵隊附軍医から、明治陸軍の軍医に任官する。明治10年、西南戦争に出征。長崎陸軍病院に勤務中、患者からコレラに感染し戦病死した。 死亡時の階級は軍医(のちの一等軍医、大尉相当官)であった。 更には、祖父にあたる手塚太郎は司法官であり、1886年に創立された関西法律学校(現関西大学)の創立者の一人である。大阪地方裁判所検事正から名古屋控訴院検事長、長崎控訴院長などを歴任している。
[編集] 政治的立場からの自由
[編集] 政党との関係
- 日本共産党の松本善明、いわさきちひろ夫婦と親交があった
- 美濃部亮吉東京都知事や蜷川虎三京都府知事の選挙応援をした
- 共産党イベント「赤旗まつり」でサイン会や講演をした
- 共産党機関紙『赤旗日曜版』で連載を持っていた(『タイガーランド』など)
上記事項により、日本共産党シンパだったと言われることもある。
- どんなに他社の仕事を抱えている時でも赤旗の連載を優先し、赤旗からは原稿料すら受け取らず、「『赤旗』のようなまじめな新聞にかかせてもらえるだけでうれしい。他社のは仕事、『赤旗』のは僕の気持ち」と発言(元赤旗記者の佐藤まさゆき談)
- 赤旗の連載と同時に、右派の『サンケイ新聞』でも連載を持っていた(『ハトよ天まで』『鉄腕アトム』『青いトリトン』)
- 創価学会系の潮出版社とも関係が深い(『ブッダ』『ハヌマンの冒険』『ルードウィヒ・B』など)
- 三木内閣時代に沖縄開発庁政務次官を務めた落語家の立川談志と親交が深かった
[編集] 手塚の政治的思想
反権力的色彩や平和主義が濃厚ではあるものの、首尾一貫した政治的信条は持っていなかったと考えてよい。「体制」の側ではない「ノンポリ」。同日に行われた異なる大会の発言からその事が読み取れる。
- 日本共産党の党大会
- 「これからは人間みんな平等な環境にならなければダメだと思います。今本当に人権というものがないがしろにされている。20世紀を迎えて博愛主義を叫んでるのにこれでは本当に恥ずかしくなりますよ」
- 自由民主党の党大会
- 「今の世界自由競争が第一になくてはならないと思います。(略)私は日本もさらに競争力をつけるべきだといいたいのです。こんなことを言うと落伍者が出るダメだと言い張る人がいます。でもそんなの競争を行ってるから当然出てくるんですよ。人権、人権言ってるのは甘えでしかないんです」
上記のように矛盾した発言をしていたことも知られている。
[編集] 技術と才能
- 漫画家の石坂啓(手塚の元アシスタント)はテレビ番組で「手塚先生は天才です。通常なら鉛筆などで下書きをした上にペン入れをするのに、手塚先生はいきなりペンで描き始めるんですから」と証言したことがある。
- フリーハンドでかなり正確な円を描ける。
- その一方で「僕は人体が正確に描けないんですよ」など、デッサン力の無さを自覚していた。
- 60年という生涯で非常に多数の作品を残しているが「頭の中には描きたいことがまだたくさんある。描いている時間がないだけで、アイデアはバーゲンセールをしても良い程ありますよ」と述べている。
- 手塚が宝塚の実家で原稿を描き(ペン入れのみ)、航空便で送られてくる原稿に東京でアシスタントが彩色するという段取りになったことがある。インターネットはもちろんファックスもない時代ゆえ、色の指定は非常に困難なはずだった手塚は電話で「この部分はこの色を一重の濃さで、次のこの部分はこの色を四重の濃さで……」など、事細かに言葉で指示した。ペン入れ原稿のコピーを取っているのではなく(家庭用コピー機などない時代)、頭の中に記憶している絵柄を元に指示するしかなかったが、指示は的確だった。出来上がった作品が間違った色で塗られていると、後で手塚はそれをちゃんと指摘した。
- 上記はアニメ監督の笹川ひろし (手塚の専属アシスタント第一号)が著書『ぶたもおだてりゃ木にのぼる』の中で披露したエピソード。笹川は手塚の超人的な能力に驚嘆した。
[編集] 作風
マスコミにヒューマニズムに富んだものと紹介されるきらいがあるが、むしろ人間の負の側面と、それによってもたらされる悲劇を好んで描いた。前半の作品に多く見られる対立(同種族どうし、人間と異星人、人間と機械など)というテーマは、手塚が学生時代、GIに英語で話しかけたがうまく通じず殴られた体験が元になっている(後に渡米した時に英語圏で英語を話せない人も多いと知り、先の体験からくる感情は雲散霧消した)。
- ライフワークの『火の鳥』シリーズ
- 人間の救いようの無い暗黒面が積極的に取り上げられ、そこから来る深い絶望のなかにもたらされる一筋の光明を描くことによって、陰影の濃い作品世界を作り出している。
- 『鉄腕アトム』と科学について
- 武器や兵器などにフェティッシュな思い入れがなく、女性を意思のある主体として描く点が、(戦前生まれの)男性としては稀有な感性の持ち主と評される事(荷宮和子ら)がある。殊更に女性的という訳ではないが、変態(生き物が形態を変えること)や性転換、異性装、中性的な物に対する憧れが作品の各所に見られる。手塚はこれらを「エロチシズム」と表現していた。
- 手塚の死の翌年の1990年、手塚作品に登場する黒人の描写が差別的だとして「黒人差別をなくす会」という団体が抗議する事件があった。以後、手塚漫画の単行本には、差別描写について弁明した但し書きが付けられるようになった。[6]
[編集] 手塚自身が影響を受けたもの
- 落語
- 漫画家
- 北沢楽天、岡本一平(岡本太郎の父)、大城のぼる、田河水泡
- ウォルト・ディズニー、ミュルト・グロス
- 小説家
- 海野十三、江戸川乱歩
- 日本映画・手塚治虫のベスト10
- 外国映画・手塚治虫のベスト10
[編集] 競争心と向上心
生前の手塚には「常にマンガのムーブメントの中心にいたい」という強い意志が指摘される。
- 劇画が巷に出始めた頃は、手塚はみずからの図柄や構図に劇画の手法を取り入れ、作品に厚みやリアリティーを増した。[7]
- ベテラン漫画家となると通常はしなくなる出版社への原稿の持ち込みを晩年まで行なっていた。[8]
- 原稿料が高くなると執筆の場がなくなることを恐れ、あえて原稿料を据え置いていた[9]。
- 注目すべき新人漫画家へのチェックを欠かさなかった[10]。
- 若手漫画家らと同席した際には、自ら出向き「君の絵のタッチは再現できるよ……」などと陽気に話しかけ、悪意のないライバル心や、流行への探究心(curiosity)を晩年に至っても持ち続けていた。
[編集] 他の漫画作家との関係
- 福井英一
- 生前の手塚が自ら「ライバル視していた」と認めていた。手塚が描けないスポーツ漫画(『イガグリくん』)をヒットさせたことが焦りを生んだのか、手塚は自らが連載していた『漫画大学』の中で「よくない例」として福井作品を模した絵を描き、これに福井が抗議して、馬場のぼるの仲介で謝罪したこともある(『漫画教室』の作中でも登場人物にわびさせている)。その後、福井は過労で急逝するが、手塚はそのとき内心ほっとしたという感情に見舞われ、そのことに後でぞっとしたと書き記している。[11]
- 水木しげる
- 妖怪のジャンルが流行すれば、対抗し『どろろ』を発表した[12]。水木しげるはある出版社パーティーの席で後の方で地味に飲んでいたら全く面識のなかった手塚が突然やってきて、自己紹介もそこそこにいきなり 「あなたの絵は雑で汚いだけだ」「あなたの漫画くらいのことは僕はいつでも描けるんですよ」と言い放った。水木は、その場では全く反論せず、言いたいように言わせていた。そして黙って帰った後、短編『一番病』[13]を描き上げる。水木マンガによく登場するメガネの主人公、「自分が世界で一番で無ければ気がすまない棺桶職人」が他人を追い落とさんがために体を酷使し周りから心配されるが「一番病に取り付かれた者にとってそれは苦しみではなく、最大の楽しみなのである」という話。
- また宝塚ファミリーランド(遊園地)にて、鬼太郎のアトラクションを開催していた事に対し、手塚は「私の故郷の宝塚で勝手なマネをするな」と“難癖”と取られても仕方がない発言を行ったそうである。「でもそんなこと言われてもね、私だって困ります」 (水木談)[14]
- 梶原一騎
- 手塚は「あんな漫画(『巨人の星』)のどこが面白いんだ」とはっきりと嫌悪を示してスタッフに訴えたという。[15]なお、手塚のアシスタントだった石坂啓によれば、『巨人の星』掲載時の『少年マガジン』全般について批判的であったとされているので、特に梶原一騎作品というわけではなく、劇画・スポ根ものといった、自身の作風と距離のある漫画全般に対する批判であったとも考えられる。
- 石ノ森章太郎
- 『ジュン』(「一切台詞の無い漫画」)に対し、嫉妬心から「あれは漫画ではない」と批判した。石ノ森はショックで連載(虫プロ商事発行『COM(コム)』)を止めるまでに至ったが、後に手塚が失言を認め謝罪。[16] 石ノ森の漫画には絵や演出方法に手塚の影響が随所に見られる。
- さいとう・たかをの『ゴルゴ13』にも似たような批判をしていた。さいとうは「漫画の神様は漫画より絵図面が上手い」と反発。また、さいとうは手塚の批判について「(自分と)全く作風が違っていたから意に介さなかった」とも語っている。
- 荒木飛呂彦が東北出身の漫画家として石ノ森章太郎を挙げた際に「あの程度」と東北出身の漫画家が少ないことから、荒木が同郷である“石ノ森を超えよ”の意を込めた。荒木のデビュー作「武装ポーカー」のセンスを絶賛し、入選に選んでいる。
- 大友克洋
- 初登場時にその精緻な画力・斬新な表現方法に衝撃を受け、自分のデッサン力の無さを自覚していた手塚は、大友を特集していた1988年の『ユリイカ』臨時増刊号誌上で、大友を絶賛して降参を宣言。しかし、大友克洋本人に会ったときには「自分でも描ける」と発言。[17]『陽だまりの樹』では大友克洋に影響を与えたフランスの漫画家メビウスのタッチを取り入れている。[18]
- 手塚はストーリー重視の、より重厚な作品の創作に意欲的に取り組むようになる。この時期、本人も自分の漫画は記号的であると宣言したという。幼い頃から手塚作品を読んで育った大友自身は手塚に高い敬意をはらっており、自身の著作『AKIRA』を手塚に捧げるとし、手塚の死後『メトロポリス』が映画化されたときには脚本で参加した。
- 藤子不二雄
- 藤子不二雄Aによると、手塚はトキワ荘時代に赤塚不二夫や石ノ森章太郎らを食事に招待したが、藤子両人は声をかけられなかったという。また、両人がコンビ解消した際に手塚は「これで同等に勝負出来る」とコメントしていた。故・藤子・F・不二雄も安孫子同様、生涯に渡って手塚を「最大の漫画の神様」と尊敬し続け、自伝や漫画の書き方の本で手塚を絶賛していた。手塚も「ドラえもんの人気にはかなわない」とコメントしたことがある。
- いしかわじゅん・吾妻ひでお
- イベントで同席し、「この二人は若手の間では神様みたいな人」と紹介され恐縮したといしかわの著作にある。[19]また、この二人を「七色いんこ」に登場させたいとのことでいしかわが本人から電話をもらったとある。
[編集] スランプと批判
スポ根漫画や劇画が人気だった時代は、手塚にとってはスランプの時期であった。手塚らしくない駄作を輩出し、虫プロ倒産の前後には「既に終わった作家」という見方もされていた。手塚がプライドを捨て自ら出版社に出向いて営業する場面もあったらしい。手塚の特徴である丸っこい絵柄、練り込んだストーリー展開、ヒューマニズム色の濃い世界観など、いずれも時代遅れと見なされていたのだ。後に名作といわれる『ブラック・ジャック』も、開始時にはヒットを予想する者はいなかったと言われ、「手塚先生の死に水を我々が取ってあげよう」という編集部側のお情けから引退作品的な短期連載として開始されたものであるという。[20]
なお同業者への対抗心の強さは、言われた者にとっては相手が「神様」のため困惑の反面、励みであり勲章ともなった。そのためか、「パーティー会場で会った時に俺も言われた」と水島新司は手塚の没後に発言している。
[編集] 手塚の領域と漫画の発展
- 青少年マンガにおける「劇画」
- 「スポ根物」
- 「近年の少女向け作品」
- 脇役や悪役が主人公の「スピンオフ」
- 描く側の多くが手塚の影響を受けていながらも「手塚が描こうとしなかったマンガのジャンル」という考えがある。
- 手塚がノータッチのジャンルであり、自身が時代の流れに乗れないジレンマもあったようだ。
- 手塚は幅広い範囲の作品を書き続け、かつ長年頂点に居続け自身が亡くなる時も病床で原稿に向かっていた。
まさに、生涯マンガ家であったと言える。
[編集] アニメーション作家として
1945年、空襲で焼け野原となった町で焼け残った映画館で、『桃太郎 海の神兵』を観た時に、アニメーションをやってみたいと初めて思ったという。ただしそれ以前から映画には親しむ環境にあった。宝塚の生家には写真好きの父親が購入した家庭用映写機もあり、戦争が激化するまでは、父の買ってきた映画やディズニーのミッキーマウスの漫画映画を見ることができた。小学校高学年の頃には映画撮影機を用いて、自分でアニメーションの撮影を試みた事もある。連続するように1枚ずつ作画した画用紙を縁側から撮影したが、自然光で光量が安定しないうえに動画には紙が足りなくなり限界を実感したという。
上京した時に偶然見かけた動画プロダクションの求人を見て応募する。しかしそのプロダクションの社長は、「出版でやっていけている人には割が合わない仕事なのでこの世界には来ない方がいい」と手塚を断ったという。手塚自身は非常に映画が好きで、年に365本を見たこともあるという。特にディズニー作品については「『バンビ』80回、『白雪姫』も50回は見た」と言うほどフル・アニメーションに心酔していた。また、手塚は漫画生活の最初期(小2ごろ)において、ミッキーマウスの模写もおこなっており、ディズニー作品は後の手塚のアニメ作品や漫画作品に大きな影響を与えた。さらに手塚の『三つ目がとおる』の主人公写楽保介の造形についてみずからワーナー・ブラザーズのアニメーション『ルーニー・テューンズ』に登場するエルマー・ファッドの写しであると漫画全集のあとがきで述べており、ディズニー以外のアメリカのアニメーション番組もよく見ていたことがうかがえる。
手塚作品『ぼくのそんごくう』が『西遊記』として東映動画でアニメーション映画化される際、スタッフとして参加。この経験と人脈を利用してアニメーション専門の「手塚動画プロダクション」(後の「虫プロ」)を設立。日本初のテレビアニメーション放送で、連続番組の『鉄腕アトム』の制作を指揮した。極めて低い単価でアニメーション制作を請け負い、製作資金の足りない分をグッズ販売の版権料や海外輸出で補うという手法は手塚が編み出したものである。グッズ販売で収益を得るという手法は、ディズニーに倣った(アトム以前は、漫画キャラクターのグッズの生産時に原作者にお金を支払うという概念は日本には無かった)。
さらにアニメ制作費の不足分を、グッズ販売等だけではなく、漫画家としての収入を注ぎ込むことにより補おうとしていたという説も存在する。
この他、制作費を低く抑える方法として「バンクシステム」と呼ばれる、撮影フィルムの使い回しや静止画の多用も、この時に始めた。作品として絵は当然荒くなるが、これは魅力的なストーリー展開で補おうとした。手塚は「バンクシステムには批判もあるが、日本でもアニメのテレビ放映が可能だと知らしめるための挑戦、実験だった」と自己弁護したことがある。これらの手法はその後の日本製アニメの規範となった。
ただし、手塚本人は製作料を安く請けたのは「失敗」だったと後述している。現在に至るも日本のアニメ産業の現場が経済的に潤わないのは、始祖である手塚の罪だとして非難する声は多い(手塚の提示した安すぎる制作費が慣例として残ってしまった)。
1971年に「虫プロ」社長を退任。1973年に「虫プロ」が倒産すると、その後は「手塚プロダクション」で実験的な超短編作品やアニメ制作をおこなった。1978年から日本テレビで放映開始となった『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』では、目玉企画として手塚治虫アニメ長編『100万年地球の旅バンダーブック』を放映。その後も年1回の同番組における名物となり、手塚の死(1989年)に至るまで続く人気コーナーとなった。
アニメーターの大塚康生は自著『作画汗まみれ 増補改訂版』(P95「4章 テレビアニメーション時代の幕開け」)で「演技設計やアニメートに無関心では優れたアニメーションになる筈がなかったように思います。実際、手塚氏はフルアニメーションの基礎技術をディズニーなどの先達に学んだ形跡がなく、ろくにアニメーターの養成もせずに漫画的なリミテッドから出発している点も実に不思議です」と批判的な意見を述べている。
手塚のアニメ制作についての詳細は、虫プロダクション、手塚プロダクションの項目も参照のこと。
[編集] 宮崎駿との関係
- アニメーション作家の宮崎駿は、「手塚さんはドラマ展開に強引と言ってもよいほど悲劇を持ち込む傾向がある」と評したことがある。東映動画のアニメーション映画『西遊記』(手塚が制作に参加)での一エピソードを例に挙げ、必然性が無いところにまで強引に悲劇を持ち込む一種の手練手管に堕した手法として否定的評価を下している。
- 日本のTVアニメの始祖が手塚であったことの問題点(異常に低い予算で『鉄腕アトム』を制作したことなど)を批判したことがある。「プロではなかった。金持ちのボンボンの道楽だった」
- 宮崎が手塚の死に際して、漫画専門誌『コミックボックス』のインタビューで語った内容が手塚を批判したかのように取られているが、それは正確ではない。なぜなら宮崎は手塚をアイロニカルに述べつつ、手塚の果した功績を評価しているからである。事実、「手塚さんはどこかで僕にバトンを渡してくれた人だと思います。彼からしかもらえなかったバトンがいっぱいあったと思います」と語っている。
- 手塚のアシスタントだった漫画家の石坂啓は、生前の手塚が宮崎に対して正式にコメントしなかったことについて「先生、悔しくて仕方なかったんでしょうね」とコメントしている。[21]ただし、手塚本人は漫画情報誌『ぱふ』のインタビュー記事において、宮崎による『ルパン三世 カリオストロの城』に関し、「僕は面白いと思った。うちのスタッフも皆、面白がって観ていた」と語っている。その後の宮崎作品、例えば『風の谷のナウシカ』に関してのコメントは僅かしかなく、先の石坂のコメントにつながるものと考えられる。
- しかし、宮崎ももともと手塚のアトムやロックの漫画が好きで影響を受けていた一人だったが、漫画家を目指していた頃はどうしても手塚の影響が抜けなかったことが悔しかったと語っている。「ストーリー漫画をはじめて、今日自分達が仕事をやる上での流れを作った人」とし、「訃報を聞いて、天皇崩御の時より昭和の時代の終わりを感じた」「猛烈に活動力を持っている人だったから、人の3倍ぐらいやってきたと思う。六十歳で死んでも百八十歳分生きたんですよ。天寿をまっとうされたと思います。」と語っている。
[編集] 医学者・手塚治
手塚自身は医業が本業でマンガは副業と述べているが、これは手塚特有の冗談で、通常は漫画が本業と考えられている。(この文章が、『ぼくはマンガ家』という文の中で発表されたという事実そのものが、その内容が冗談であることを示している)ただし、知人の漫画家やアシスタント、手塚番記者らが手塚の診断を受けたことがあるという言及はいくつか残っている。
戦争末期、海軍飛行予科練習生に志願するが、身体検査(視力)で不合格になった。この試験に不合格になった者は、健民修練所という全寮制の訓練所に入所し軍事教練を受けることになっていた。手塚も入所したが、栄養失調のまましごきに近い教練を受けたため水虫が悪化し、もう数日で両腕切断というところまで悪化した。建前としては、このとき診察した大阪帝国大学付属病院の医者に感動し医師を目指した、ということになっている。ただし本人は、医学校に行けば卒業までは徴兵される心配がなく、卒業後も軍医ならば最前線に配置される可能性が低いことが医学校に進んだ理由であることを認めている。
戦後に設立された奈良県立医科大学に電子顕微鏡が導入されたが、当時の日本には顕微鏡写真を撮影できる装置も技術も無かった。そこで、手描きでスケッチをしなければならなくなったが、医学論文に添付するようなスケッチは単に絵が上手いだけでは不適で、医学的な知識を持った者が描かなければ役に立たなかった。困った奈良県立医科大学の研究者は、医学校時代の同窓生である手塚にスケッチを頼んだ。このため、手塚は電子顕微鏡を自由に使え、なお且つスケッチもできる日本で唯一の研究者となった。
頼まれたスケッチ以外にも電子顕微鏡で多くのスケッチを行い、これを論文にまとめ医学博士号を取得した。これらのスケッチは現在も奈良県立医科大学解剖学教室に保管されており、いま現在見ても実に精緻で、かつ美しいものである。なお、同大学の図書館には、かれが後に贈ったブラック・ジャックの絵が展示されている。
テレビなどで漫画の害悪を糾弾(いわゆる悪書追放運動)するような教育番組が多く放映されていた当時、出たがりの手塚は、糾弾の矛先となるのを承知の上で漫画擁護のため、そのような番組に率先して出演し教育学者やPTAなどから直接批判を浴びていた。しかし、手塚の博士号取得後、司会のアナウンサーが「医学博士の手塚さん」と紹介するようになると、漫画を読むと頭が悪くなると主張していた保護者代表らはその持論が破綻することとなり、その後そのような主張を展開する者は徐々に減ることとなった。ただし手塚は、批判をかわすために博士号を取得したのではないとしている。
手塚が実際に患者を診たことはほとんど無い。専門は外科であり、外科医としての専門知識は、『ブラック・ジャック』等の自身の作品にも生かされているが、医学博士を取得した研究テーマは、幼少時からの昆虫少年であった履歴をしのばせる、むしろ基礎生物学的領域である、タニシの異形精子細胞の研究であった。そもそもの漫画家としてのキャリアは、少年時代に同じ昆虫少年たちを集めて創立した昆虫同好誌への漫画作品の連載から始まっており、精巧な昆虫細密画集とも言える手書きの私的な昆虫図鑑を描いたりもしている。こうした生命を愛す長いキャリアを背景にした豊かな動植物に対する知識も作品に活かされている。
[編集] 手塚漫画のキャラクター
手塚治虫の漫画では、ある作品の主人公を別の作品の脇役として登場させる手法が少なくない。たとえば、『火の鳥』の猿田博士は『ブラック・ジャック』では本間丈太郎として登場し、『リボンの騎士』のサファイアも例外ではない。また、ハムエッグ、アセチレン・ランプ、金三角などの脇役キャラでは、一つの作品に別の役で何度も登場する事がある。この中で手塚治虫の中学時代から登場し、あらゆるヒット作に出続けたキャラクターがヒゲオヤジである。これは、映画の様に、俳優をいくつかの作品に登場させる「スターシステム」を漫画に取り入れたものである。
ヒョウタンツギ、スパイダー、ブクツギキュ、ママー、ブタナギ、ロロールル、この怪キャラクター達は、幼い頃、手塚の兄弟との落書き遊びに由来する。これらのキャラクターは唐突に現れる、ストーリーと直接は関係ないギャグキャラクターである。
- ヒゲオヤジ(本名:伴 俊作)
- 手塚作品の中でも古参のキャラクター。少年時代の友人が描いたそのおじいさん(伊丹で老舗の和菓子屋を経営していた人物、と手塚は語っている)の似顔絵がモデルだと言われる。又、手塚が好きなディズニーキャラクター、ドナルドダッグの仕草を参考にしていると本人が明かしている。私立探偵や先生など、正義感に燃える江戸っ子を演じることが多いが、『ブラック・ジャック』におけるスリ役など、幅広く演じる名バイプレーヤーである。 代表作は『ロストワールド』『メトロポリス』『ふしぎ旅行記』『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『魔神ガロン』『バンパイヤ』『やけっぱちのマリア』『ブッダ』『ミクロイドS』『三つ目がとおる』『MW』『ミッドナイト』『地下鉄サム』など。
- ケン一(敷島健一)
- 純粋さに満ちた「普通の」少年として、『新宝島』を始め初期作品(『地底国の怪人』『メトロポリス』『ふしぎ旅行記』など)において主役を張ることが多かった。しかしそのイメージが災いして「無個性」であるとされた。しかしその後も「普通の」少年を演じ続けた彼は、多くのファンに愛された手塚作品にかかせないキャラクターである。代表作は『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『魔神ガロン』など。また、『ケン1探偵長』では久々の主役(少年探偵)を張るが、これはキャラクター・ケン一に対する手塚の思い入れが生み出した作品であろう。
- ロック・ホーム(間久部緑郎)
- ケン一とは対照的なのがロックである。単純に純粋で正義に満ちた少年ではなく、ダークサイドを持った人間という現実的な役柄を演じている。二枚目から悪役まで演技の幅が広い。名前はシャーロック・ホームズからとられたと言われる。デビュー作は『少年探偵ロック・ホーム』(1949年)。代表作に『来るべき世界』『化石島』『ロック冒険記』『バンパイヤ』『アラバスター』『ブッダ』『ブッキラによろしく』など多数。
- ハム・エッグ
- デビュー前の作品『オヤヂの宝島』では既に原型が出来上がっていた(デビュー作『地底国の怪人』(1948年))。いかにも「小悪党」と言った感じの面構えは印象的。 代表作は『ジャングル大帝』『W3』『どろろ』『地球を呑む』『I.L』『アドルフに告ぐ』など。
- アセチレン・ランプ
- 後頭部に立つロウソクが印象的な名悪役。多くの作品で悪役を演じているが、ヒゲオヤジ演じるスリと奇妙な友情で結ばれた刑事など、善人の役も少なくなかった。ハム・エッグと違って薄っぺらさが無く、男の美学を貫くタイプのギャングスターである。代表作は『ロストワールド』『メトロポリス』『ふしぎ旅行記』『来るべき世界』『W3』『地球を呑む』『アドルフに告ぐ』など。
- レッド公
- 大きなワシ鼻と髪型が非常に特徴的である。芸域がとても広く、いかなる役でもこなせる(女性として登場したことまである)、手塚作品のなかでも名優中の名優である。代表作は『メトロポリス』『ふしぎ旅行記』『化石島』『ジャングル大帝』『W3』『地球を呑む』『I.L』『火の鳥 乱世編』など。
- チックとタック
- デビューした頃はラムネとカルピスと呼ばれていた二人組。モデルはアメリカのコメディー俳優アボットとコステロ。深刻な場面でも彼らが登場するとほのぼのとしてしまう、手塚作品のベストコンビ。代表作は『ふしぎ旅行記』『珍アラビアンナイト』『火の鳥 ヤマト編』『青いブリンク』など。
- 下田(げた)警部
- 『くろい宇宙線』(1956年)でデビュー。体格が良く、スーツ・ネクタイ・中折れ帽というフォーマルなファッションに、エラの張った四角い顔。フライシャー兄弟が描く『スーパーマン』のクラーク・ケントに似ており、ディック・トレイシーがモデルとされる。『バンパイヤ』にて警部役で登場。後に、『奇子』『ガラスの城の記録』にも刑事役として登場し、ヒゲオヤジに代わって1970年代以降の定番刑事役キャラクターとなった。出演作は他に『地球を呑む』『七色いんこ』『陽だまりの樹』など。
- 手塚治虫
- 手塚は作品に自ら顔を出すことでも有名であった。大きな鼻とベレー帽はおなじみとなっている。役柄はストレートな漫画家「手塚治虫」役以外にも医者役、更にはモブの一人などさまざま。自伝的作品(『がちゃぼい一代記』『紙の砦』『ゴッドファーザーのむすこ』『どついたれ』『マコとルミとチイ』など)では大寒鉄郎(大寒=治虫、鉄郎=手塚)として登場する作品も多い。主な出演作は『化石島』『バンパイヤ』『ザ・クレーター』『空気の底』『ブラック・ジャック』『サンダーマスク』など。
- ヒョウタンツギ
- ツギハギだらけの瓢箪がひっくり返ったような体にブタ鼻、白目を剥いた謎の生物。ある時はキノコ、ある時はキャラクターたちの心情を表したり、またある時はそのキャラクター自体の顔になったりして、まさに変幻自在。そして正体不明。実は食べるとおいしくて栄養があるという設定がある。
- スパイダー
- ヒョウタンツギと同じく手塚の妹弟の落書きから生まれた謎の生物。場面の端々に登場しては「おむかえでゴンス」と言うが、時々それ以外の言葉を喋るもそのほとんどが語尾に「ゴンス」が付く。
[編集] 作品
作品については手塚治虫の作品一覧を参照。
[編集] アニメ
[編集] 監督
[編集] 原案
以下、NTV系『24時間テレビ アニメスペシャル』より
- 『100万年地球の旅 バンダーブック』
- 『海底超特急マリンエクスプレス』
- 『フウムーン』
- 『ブレーメン4』
- 『プライムローズ』
- 『大自然の魔獣バギ』
- 『三つ目がとおる』(注:テレビ東京で放映された作品とは無関係)
- 『ボーダープラネット』
- 『ぼくは孫悟空』
[編集] 原作
[編集] 漫画以外の著書
- 『マンガの描き方』(光文社刊 1977年初版)
- 『ガラスの地球を救え!』(光文社刊)
- 『ぼくのマンガ人生』(岩波新書 509)
- 『観たり撮ったり映したり』(キネマ旬報社刊)
- 『ぼくはマンガ家』 (大和書房刊)
[編集] アシスタント
- 笹川ひろし
- 古谷三敏
- 久松文雄
- 小室孝太郎
- 三浦みつる - 『ブラック・ジャック』、『MW』に携わる。手塚賞歴代最多受賞
- 寺沢武一
- 成田アキラ
- 小谷憲一
- 池原しげと
- 石坂啓
- 高見まこ
- わたべ淳
- 大和田夏希
[編集] アニメーションスタッフ
- 小林準治 - 後期の実験アニメの作画を担当
- 坂口尚 - アニメ関係で手塚治虫の片腕として活躍
- 豊田有恒(虫プロ文芸部)
- 石津嵐(虫プロ文芸部)
- 辻真先(桂真佐喜名義で多くのアニメ作品に参加)
- 富野由悠季
[編集] メディア出演
[編集] テレビ
- 『バンパイヤ』(1968年)
- 『お笑いオンステージ 減点パパ』(1974年)
- 『11PM ケッ作集中!! 手塚治虫マンガ大全集』(1977年)
- 『少女探偵スーパーW』(1979年)
- 『オーケストラがやってきた-手塚治虫の語るモーツァルト』(1979年)
- 『ヒポクラテスたち』(1980年)
- 『日曜美術館-私と鳥獣戯画』(1982年)
- 『ぴったし カン・カン』(1985年)
- 『徹子の部屋』(1986年)
- 『ワンダービートS 手塚治虫のミニミニトーク』(1986年)
- 『妖怪天国』(1986年)
- 『創作の秘密』(1986年)
- 『テレビ探偵団-手塚治虫特集』(1988年)
- 『加山雄三ショー』(1988年)
[編集] ラジオ
- 『手塚治虫のオールナイトニッポンスペシャル』(1987年)
[編集] CM
- 日本デジタル研究所 文作くん(ワープロ専用機)(1983年)
[編集] 演じた俳優
- 江守徹 - 『まんが道』(1987年)『まんが道 青春編』(1988年)
- 手塚眞 - 『NHKスペシャル いのち わが父・手塚治虫』(1989年)
- 古谷一行・工藤彰吾 - 『水曜グランドロマン 手塚治虫物語 いとしき生命のために』(1990年)
- 中井貴一 - 『陽だまりの樹』(1992年、1995年、1998年)
- - 『アドルフに告ぐ』劇団俳優座創立50周年記念公演(1994年)
- 北村想 - 『トキワ荘の青春』(1996年)
- 吉澤拓真 - 『天空に夢輝き 手塚治虫の夏休み』(1996年)
- 奥田瑛二 - 『永遠のアトム 手塚治虫物語』(1999年)
- 久野雅弘・立澤真明 - 『愛と青春の宝塚』(2002年)
- 春風亭昇太 - 『超大型歴史アカデミー100人の偉人・天才編』(2007年1月5日)
- 上地雄輔 - 未来創造堂『シアター創造堂 日本漫画 加藤謙一』(2007年1月26日)
[編集] 出典・脚注
- ^ 霜月たかなか編『誕生!「手塚治虫」 マンガの神様を育てたバックグラウンド』(1998年、朝日ソノラマ)
- ^ 夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか その表現と文法』日本放送出版教会、1997年
- ^ 手塚悦子『夫・手塚治虫とともに 木漏れ日に生きる』(1995年、講談社)
- ^ 夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』(1992年、筑摩書房)。
- ^ 「COMIC BOX」1988年8月号。
- ^ 竹内オサム『戦後マンガ50年史』(1995年、筑摩書房)
- ^ 夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』(1992年、筑摩書房)
- ^ 呉智英、藤田尚、米澤嘉博、村上知彦、喰始「座談会「手塚治虫」検証 民主主義とヒューマニズムの人だったのか」『COMIC BOX』(ふゅーじょんぷろだくと、1989年5月号)
- ^ 西村繁男『まんが編集術』(白夜書房、1999年)
- ^ 宮原照夫『実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記』講談社、2005年
- ^ 手塚治虫『ぼくはマンガ家 』(1969年、毎日新聞社)
- ^ 夏目房之介『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』(筑摩書房、1995年)
- ^ 初出は小学館の「ビッグコミック」1969年10月25日号、角川ホラー文庫収録
- ^ 足立倫行『妖怪と歩く 評伝・水木しげる』(1994年、文藝春秋社)
- ^ 『1億人の手塚治虫』(1989年、JICC出版局)
- ^ 石ノ森章太郎『絆 不肖の息子から不肖の息子たちへ』(2003年、鳥影社)
- ^ 『1億人の手塚治虫』(1989年、JICC出版局)
- ^ 『手塚治虫の冒険』(1995年、筑摩書房)
- ^ いしかわじゅん『フロムK』(双葉社「週刊漫画アクション」1989年3月7日号掲載分)。
- ^ 「『ブラック・ジャック』は手塚漫画の終わりを飾る作品として企画された」『RackAce』(1994年10月号、トーハン)及び、安藤健二『封印作品の謎』(太田出版、2004年)での「少年チャンピオン」の手塚治虫担当編集者岡本三司の証言による。しかし、『別冊宝島・70年代マンガ大百科』(1996年、宝島社)の当時の「週刊少年チャンピオン」壁村耐三編集長はこの点について尋ねられて、「それは大げさ」として手塚の側が「もう最後だから」というニュアンスだったという。
- ^ 『1億人の手塚治虫』(1989年、JICC出版局)
[編集] 関連項目
- 宝塚市立手塚治虫記念館
- アニメ
- 虫プロダクション
- 手塚プロダクション
- 手塚賞
- 手塚治虫文化賞
- Earth Dreaming~ガラスの地球を救え!(タイトルは手塚が著した随筆集から取った。長女・手塚るみ子がパーソナリティーを勤めるABCラジオの番組)
- 桃太郎 海の神兵
- W3事件
- 福井英一
[編集] 外部リンク
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