打吹城
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打吹城(うつぶきじょう)は、鳥取県倉吉市仲ノ町の打吹山(標高204m)に存在した城郭。室町時代の伯耆国守護所とされた。
[編集] 歴史
- 南北朝期の1370年または(応安3)または延文年間(1356年~1361年)の築城と伝えられる。伯耆守護・山名時氏の嫡男である山名師義が田内城から守護所を移した。以後、戦国時代まで伯耆守護山名氏による守護所として続く。
- 1524年(大永4)の出雲国の尼子経久による『大永の五月崩れ』で守護山名氏は没落する。
- 尼子氏滅亡後は安芸国の毛利氏による支配となり、1580年(天正8)には吉川元春が在城する。
- 1585年(天正13)の羽柴秀吉と毛利氏の和睦の後は、羽衣石城主・南条氏の支配下に入る。南条元続は一族の南条備前守を置いて、打吹城の守備にあたらせた。また打吹城の近世城郭化が図られ、本格的な城下町が形成され始め、町の名が倉吉と呼ばれるようになったのも、この頃と考えられる。
- 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで南条元忠は西軍に属して改易され、伯耆国は中村一忠が支配するところとなった。中村一忠は米子城を居城とし、打吹城には城番として中村伊豆守を置いた。
- 1609年(慶長14)、中村一忠は無嗣除封となり、打吹城は江戸幕府の直轄支配地となった。1614年(慶長19)には安房国の里見忠義が倉吉3万石を与えられるが、これは実質的には配流であり、里見忠義が打吹城に入ることはなかった。
- 1615年(元和元)の元和一国一城令で打吹城は廃城となり、破却を受ける。
- 1617年(元和3)に池田光政が因伯32万5千石の領主として鳥取城に入った。その際、鳥取城とその城下町があまりにも手狭であるとして、新城の建設が検討された。打吹城も新城候補地に挙がったが『領国の中央なれど、山奥にて国主鎮座の地にあらず』として取り上げられなかった。池田光政は重臣・伊木忠貞を倉吉に置いて支配させた。
- 1632年(寛永9)に池田光仲が池田光政と替わって鳥取城に入った。倉吉は次席家老の荒尾氏が治めることとなり、打吹山麓に陣屋が置かれて明治維新まで続いた。
[編集] 構造
- 山頂部と中腹に曲輪跡が残る。また山麓には南条備前守の居館跡が残る。現在残る遺構は南条氏による改修のものと考えられる。
- 本丸は6つの曲輪からなる。本丸北隅の倉吉市街地を望む場所には天守台も残り、天守も存在していたと考えられる。また本丸には慶長初期のものと考えられる石垣・枡形も残っている。
- 本丸から西方に伸びる尾根には、本丸から少し下って備前丸、さらに下った中腹に越中丸がある。備前丸と越中丸を中心に、尾根上に大小の削平地が連なる。西方重視の構造で、西側からの尼子氏の脅威を示している。
- 城の大手は北側で、山麓に南条備前守の居館跡が残る。江戸時代の倉吉陣屋は、さらに下った現在の倉吉市立成徳小学校の地にあった。
- 現在陸上競技場となっている場所には、大平と呼ばれる小山があった。ここには山麓を防御する施設があったと考えられる。