掛塚藩
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掛塚藩(かけづかはん)は、遠州(現在の静岡県磐田郡竜洋町掛塚)に存在した藩。
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[編集] 歴史
掛塚藩の藩主家である加々爪氏の祖先・加々爪政定は今川範政の猶子になった人物で、後に上杉満定の養子としても迎えられたため、一時は上杉氏を名乗っていたほどの名族である。この経緯から加々爪氏は今川氏の家臣として仕えていたが、今川義元が織田信長によって討たれて今川氏が衰退すると、徳川家康の家臣となった。
その後、加々爪氏は代を重ねるごとに加増を受けるようになる。特に加々爪忠澄は関ヶ原の戦い、大坂の陣で武功を挙げたため、順調に加増を受けて寛永10年(1633年)には9500石を与えられた。この2年前には町奉行となっている。
忠澄の後を継いだ加々爪直澄は徳川家光のもとで御小姓を努めたことから2000石を与えられた。寛永18年に忠澄が死去すると、その家督と所領9500石を継いで、合計1万1500石を領する大名となって諸侯に列し、掛塚藩を立藩した。このとき、直澄は弟の加々爪信澄に1000石、加々爪定澄に500石を分与している。その後、直澄は寛文元年に寺社奉行となって、同8年には3000石を加増された。
延宝7年(1679年)に直澄が隠居した後は加々爪直清が後を継いだ。しかし天和元年(1681年)2月、直清は旗本の成瀬正章と領地の境界をめぐって争うという事件を起こし、幕命により直清には落ち度があったとして所領を没収されて改易されてしまったのである。
[編集] 歴代藩主
[編集] 加々爪(かがづめ)家
1万1500石→1万石→1万3000石。譜代。
- 初代:加々爪直澄(なおずみ)【寛永18年藩主就任-延宝7年6月18日隠居】〔書院番頭。大番頭。寺社奉行〕
- 二代:加々爪直清(なおきよ)【延宝7年6月18日藩主就任-天和元年改易】