日本映画社
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日本映画社とは、
- 1932年に設立後、すぐ翌年に廃業となった、日本映画株式会社 のこと。残された撮影所は日活が引継ぎ、日活多摩川撮影所となった。
- 1939年の映画法制定後、国策により設立された、社団法人日本映画社、後の株式会社日本映画社のこと。(本項で詳述)
日本映画社(にっぽんえいがしゃ)とは、現在の株式会社日本映画新社の前身で、昭和前期に存在した映画会社である。略称、日映。 第二次世界大戦中は日本国政府の意向を受けたニュース映画、国策宣伝映画を量産した。終戦後、改組され、ニュース映画のほかに、記録映画、教育、科学映画を多数制作した。
[編集] 沿革
- 1939年、映画法が制定され、映画館で映画の上映前後には必ずニュース映画を上映することが義務付けられる。
- 1940年、政府の統制を容易にするため、朝日新聞社、東京日日新聞、大阪毎日新聞グループ、読売新聞社の大手新聞3社と同盟通信社のニュース映画部門が統合され、社団法人日本ニュース映画社となる。
- 1941年、社団法人日本ニュース社は、東宝、松竹の文化映画部門と各文化映画製作会社を吸収し、社団法人日本映画社へ改組。週1本のニュース映画と多数のプロパガンダ映画を制作する。
- 1945年、原爆投下後の広島を撮影("The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki")。終戦により、映画法廃止。
- 1946年、社団法人日本映画社は、株式会社日本映画社へ改組。
- 1948年、『生きているパン』公開。北大教授中谷宇吉郎との共作『霜の花』、『大雪山の雪』完成。
- 1949年、日本映画社教育映画部、朝日文化賞受賞。
- 1950年、『稲の一生』公開。
- 1951年、東宝の全額出資により、株式会社日本映画新社へ改組。
[編集] 備考
日本映画社の設立は情報局の参与である古野伊之助が「思想戦」において映画部門を統制させるために作らせたとする説がある。1909年、18歳の古野が京橋区瀧山町で通信社の給仕として働いていた時代、泰明小学校の子供たちが仕事場で相撲を取ったりして遊んでいた。中でも浅岡信夫というヤンチャ坊主は勉強中の古野の横で暴れていたため、事務所の金庫に閉じ込められた事もあったとされるが古野と同僚の根岸寛一に可愛がられていた。後、参議院議員となる浅岡は映画法制定の影の牽引役であり、根岸は日本ニュース社の社長となる。