早川正紀
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早川 正紀(はやかわ まさとし 1739年(元文4年)-1808年(文化5年))は江戸時代の旗本。通称は八郎左衛門。名前については「まさのり」「まさつな」と読む説もある。
井上河内守の家臣和田市右衛門直舎の次男として、江戸に生まれる。
その後、徳川御三卿の一つである田安徳川家家臣早川伊兵衛正諶の養子となったが、1766年(明和3年)幕臣の早川宗家に跡継ぎが無いため、幕府に許されて宗家を継いだ。
1769年(明和6年)勘定奉行所勘定役に出世し、1781年(天明元年)まで在職。その間、主に関東諸国の河川工事に功労が多く、1775年(安永4年)には幕府から報奨を賜っている。
1781年(天明元年)に初めて代官に任命され、出羽国尾花沢(山形県尾花沢市)、美作国久世(岡山県美作市、備中国笠岡(岡山県笠岡市)、武蔵国久喜(埼玉県久喜市)の代官を歴任し数々の善政を施した。
美作国久世、備中国笠岡の代官在任中は、管内農村を親しく巡回して経済的精神的に荒廃した状況の復興のため倹約の奨励・赤子間引き禁止を説き、「久世条教」を出版して庶民の教育に努めた。また、吉岡銅山の再興・弁柄(ベンガラ・酸化第二鉄を主成分とした紅色の粉末。建築物に良く使用される。)生産の保護・虎斑竹の保存など地域産業の振興にも努めた。 武蔵国久喜に転任する際には、領民から代官への留任願が4回も起こったほど名代官として広く民衆に慕われたと言う。
1808年(文化5年)江戸で病没し、本所霊山寺に葬られた。
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