曹洪
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曹洪(そうこう、? - 232年)は、中国の三国時代、魏の武将。字は子廉。
[編集] 略伝・人物
[編集] 生涯
曹操の従弟、祖父は曹珀向(曹騰の長兄)。父の名は不詳。曹馥・曹震の父。後漢の衛将軍の曹瑜と尚書令・呉郡太守の曹鼎は伯父に当たる。そういった意味では、曹休(曹鼎の孫)は彼の血の濃い従子(おい)に当たることになる。
若い時に伯父の曹鼎が尚書令だったために、彼はその縁故で、蘄春の県長に推挙されたという。また、曹洪は楊州刺史である陳温と親友関係だったために、190年、陳温と共に曹操の挙兵に従い、親族の曹仁と共に武将として仕えた。
董卓討伐戦の時、長安へ逃げ込んだ董卓を討ちに反董卓連合軍から曹操軍単独で長安を攻めるが、河南の汴水で、董卓軍の伏兵に遇い曹操軍は大敗した。だが曹洪は、徐栄軍に川岸まで追い詰められ自害を決意した従兄の曹操を励まし、「天下に洪なかるべきも、公なかるべからず!」と直言して曹操を担いで川岸の対面まで泳いで曹操を救ったという功績がある。 この時、かれは白鵠という名馬に乗っていた。そして歳月は流れて、202年の官渡の戦いでは兵糧などの後方補給などで曹操の覇業を常に補佐し、曹操が烏巣に攻撃した後にその留守をよく守り、当時袁紹の武将だった張郃・高覧らの攻撃をよく防御した名将である。また、219年の漢中攻防戦では、陰平のチベット系氐族の酋長の強端と結んで、侵攻した蜀将の呉蘭と雷同を強端と共に斬り捨てている。その戦功で、都護将軍・国明亭侯として昇進した。
しかし、このような多くの功績を立てたことをいいことに傲慢な一面もあり、族子(おい)の曹真が肥満体であることをからかったり、自分自身の功績を自慢し過ぎて、楊阜に戒められたこともあったと言われている。また、馬超征討戦では先鋒として潼関守備の任を与えられ曹操より打って出ることを禁じられるが、馬超軍の兵士に罵倒されたことを怒り曹操の命令を破り打って出てしまい潼関を馬超軍に奪われる。そのことで曹操の怒りを買うが、しばらくして馬超に追い詰められた曹操を救ったために潼関敗北の罪は相殺された。(なお、この潼関における失態について正史には記述が無い)曹操は曹洪のこのような性格を熟知しており、財貨と女色を好む面を前漢の高祖(劉邦)に比して、その参謀であった辛毗と曹洪と自分の“おい”である曹休に慎重に警告している。また曹操の嫡子の曹丕とは大変仲が悪く、曹丕が申し込んだ借金を拒絶した経緯から曹丕に恨まれて、曹操の死後、自身が匿っていた食客の罪を連座する形で逮捕された上に、本来なら死罪のところを卞皇后(曹丕の生母)の取りなしによって、所領と爵位を取り上げられるだけで済んだ。226年に曹丕が40歳の若さで逝去し太子の曹叡が即位すると、改めて楽城侯に封じられて今度は驃騎将軍に任命され厚遇された。
[編集] 創作作品における曹洪
数々の実績を収め、また守銭奴・女色好きという個性派の武将でありながら、創作作品においてはあまり目立った存在ではない。蒼天航路では夏侯惇らと共に、曹操四天王という扱いをされているものの、四人の中では最も地味な存在である。最大の見せ場である曹操救出シーンも夏侯惇に奪われている。真・三国無双では、親族四人の中で唯一登場していない武将である。魏には軍師勢や楽進等、有力武将が数多く居るため、彼の参戦には難しい状況にある。