栃東知頼
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栃東 知頼(とちあずま ともより、1944年9月3日 - )は、福島県相馬郡(現在の相馬市)出身(出生地は茨城県筑波郡)で春日野部屋所属の元大相撲力士。本名は志賀駿男(しが はやお)。得意手は左四つ、上手出し投げ、右四つ寄り。身長177cm、体重115kg。次男は大関・栃東大裕。最高位は関脇。現在は年寄・玉ノ井。
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[編集] 来歴
横綱・栃錦が春日野部屋継承後に入門した力士では初の関取。現役時代は身長177cm・体重115kgの小兵で、両膝の故障と肝炎による休場とで大成を阻まれたが、大鵬45連勝の直前の黒星をつけるなど、師匠譲りの技巧派力士として知られた。殊勲賞4回はいずれも技能賞とのダブル受賞。1972年1月の優勝は11勝4敗で現在も史上最低の成績だが、千秋楽大関清国との対戦に負ければ5敗力士による優勝決定戦になるところを出し投げで勝ったものだった。
現役時に関脇長谷川に対して、「顔も見たくない」と発言したことがある。親方となった後、2007年春場所6日目の大相撲中継の解説を努めたが、岩佐アナが琴光喜の通算関脇在位場所数記録の話をした際に(春場所現在琴光喜は20場所関脇を勤めていて、あと1場所で1位タイに躍り出るところだった)、「長谷川、琴錦・・・」(いずれも関脇在位21場所で1位タイ、他には大関・魁皇も1位。関脇在位記録を参照のこと)と名前を挙げた途端に、クスッと笑った。岩佐アナは笑いに対して「お知り合いですか?」と返したが、その笑いの真意が長谷川に対する何らかの感情にあるかどうかは、全く不明である。
引退後は師匠であった春日野親方の部屋付きとなったが、師匠の逝去をきっかけに玉ノ井部屋を創設、独立を果たした。
次男・太祐が自らの部屋に入門すると、スピード出世で十両に昇進。昇進を期に現役時代の四股名を継がせた。
協会では、審判委員等を歴任し、2007年1月に役員待遇(指導普及部副部長・生活指導部副部長)に昇格した。定年が2年後に迫っているが、部屋は現在大関にまでなった大祐に継がせる意向である。
[編集] 略歴
- 1960年 - 11月、初土俵。
- 1965年 - 5月、新十両。
- 1967年 - 3月、新入幕。
- 1968年 - 11月、新小結。
- 1970年 - 3月、新関脇。
- 1972年 - 1月、西前頭5枚目で初の幕内最高優勝。
- 1977年 - 1月、前場所東前頭3枚目で2勝13敗に終わったのに続き西前頭13枚目で初日から4連敗し引退。年寄玉ノ井襲名。
- 1990年 - 春日野部屋から独立し、玉ノ井部屋を興す。
[編集] 生涯成績
- 通算成績:611勝593敗33休
- 幕内成績:404勝448敗23休
- 幕内在位:59場所
- 三役在位:6場所(関脇1場所、小結5場所)
- 幕内最高優勝:1回(1972年1月場所)
[編集] 三賞・金星
- 殊勲賞:4回(1968年5月場所、1968年9月場所、1969年9月場所、1970年1月場所
- 技能賞:6回(1968年5月場所、1968年9月場所、1969年9月場所、1969年11月場所、1970年1月場所、1971年1月場所)
- 金星:5個(柏戸3個、大鵬1個、北の富士1個)
[編集] 改名歴
- 志賀 駿男(しが はやお)1960年11月場所-1963年7月場所
- 栃東 裕典(とちあずま ゆうすけ)1963年9月場所-1964年9月場所
- 栃東 駿男(- はやお)1964年11月場所-1966年9月場所
- 栃東 知頼(- ともより)1966年11月場所-1977年1月場所
[編集] 関連項目
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カテゴリ: 福島県出身の大相撲力士 | 1944年生 | 相撲に関するスタブ