梅津美治郎
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梅津 美治郎 | |
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1882年1月4日 - 1949年1月8日 | |
生誕 | 大分県 |
死没地 | 東京都 |
忠誠 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1903年 - 1945年 |
階級 | 陸軍大将 |
指揮 | 関東軍総司令官 参謀本部参謀総長 |
賞罰 | 終身刑 (東京裁判) |
梅津美治郎(うめづよしじろう、1882年1月4日 - 1949年1月8日)は、昭和期の陸軍軍人。大分県中津市出身。中学済々黌出身。関東軍総司令官、参謀総長などを務める。
誕生日は軍人勅諭が発布された日である。
二・二六事件後に次官として陸軍内の粛正を行った。太平洋戦争開戦前、対外進出強硬派であった陸軍内で冷静であった数少ない幹部の一人。
関東軍総司令官に就任したのはノモンハン事件の責任を取って植田謙吉大将が退いた後で、再三にわたり中央の統制を破って大事件を起こした関東軍参謀の粛正が求められたが、見事にその任を果たした。太平洋戦争中に関東軍が何の事件も起こさず静謐を保ったのは梅津の功である。
終戦時の御前会議では陸軍を代表して本土決戦を主張するが、個人的には本土決戦は不可能だと考えていたらしく、天皇に本土決戦の準備が出来ていないことを明示した極秘資料を提示したり、一部将校たちによる本土決戦を求めるクーデターに対しては厳しい態度で臨んでいる。
太平洋戦争の降伏文書調印式全権を依頼されると、徹底抗戦を主張した自分をアメリカの軍艦に行かせるのは死ねというも同然であり、降伏に賛成した米内光政、鈴木貫太郎ら海軍首脳が適役であるとして拒否するものの、昭和天皇の願いを受けて重光葵らと共に出席した。
極東国際軍事裁判では終身刑が言い渡され、1949年1月8日、服役中に病没した。
[編集] 年譜
- 1903年(明治36年)11月30日 - 陸軍士官学校卒業(15期)
- 1904年(明治37年)2月12日 - 少尉に任官
- 1911年(明治44年) - 陸軍大学校卒業(23期)
- 1928年(昭和3年) - 陸軍省軍務局軍事課長
- 1930年(昭和5年) - 陸軍少将に昇進
- 1934年(昭和9年) - 陸軍中将に昇進
- 1936年(昭和11年) - 陸軍次官
- 1940年(昭和15年) - 陸軍大将に昇進
- 1942年(昭和17年) - 関東軍総司令官
- 1944年(昭和19年) - 参謀総長
- 1945年(昭和20年)9月2日 - 大本営全権として降伏文書調印式に出席
[編集] 登場する小説
[編集] 関連項目
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極東国際軍事裁判・A級戦犯 |
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