横須賀藩
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横須賀藩(よこすかはん)は、遠州に存在した藩の一つ。藩庁は横須賀城(静岡県掛川市松尾町)。
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[編集] 概要
戦国時代の遠州は、武田氏と徳川氏がその領有をめぐって常に対立していた土地である。武田氏滅亡後は完全に徳川氏の領有するところとなったが、天正18年(1590年)の後北条氏滅亡後、家康が関東に移封されることによって豊臣秀吉の家臣・有馬豊氏が3万石で入った。豊氏は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に与して本戦に参戦して活躍した功績を家康に賞されて、戦後に横須賀から丹波国福知山6万石に加増移封される。
代わって、徳川氏譜代の家臣で徳川四天王で有名な榊原康政の嫡男・大須賀忠政が慶長6年(1601年)2月、上総国久留里から6万石で移された。忠政は大須賀氏を継いでいたため、慶長11年(1606年)の康政の死後、榊原本家の家督は弟の榊原康勝が継ぐこととなったが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣後、康勝は持病の痔が原因で他界してしまう。26歳の若さであった。康勝には嗣子が無く、本来ならば榊原氏は無嗣断絶するところであったが、家康は自分の覇業を支えてくれた四天王の家系が絶えることを惜しみ、忠政の長男で大須賀氏の家督と横須賀の所領を継いでいた大須賀忠次に榊原氏の家督を継がせた。このため、忠次は榊原氏の所領である上野国館林藩に移封となった。
代わって下総国関宿藩より松平重勝が2万6000石で入る。子の松平重忠が後を継いだが、出羽国上山藩へ移封。そして、徳川秀忠の側近であり、江戸城中で暗殺されたことで有名な井上正就が5万2000石で入るが、子の井上正利のとき、常陸国笠間藩へ移封。
三河国岡崎藩から本多利長が5万石で入るが、利長は領民に対して過酷な統治を敷いたことを幕府に咎められて、出羽国内の1万石へ減移封と、短期間で藩主が入れ替わり、藩主が定着しなかった。
天和2年(1682年)3月9日、信濃国小諸藩より西尾忠成が2万5000石で入ることで藩主家の支配がようやく定着する。第2代藩主・西尾忠尚は老中となって幕政に参与したことから1万石を加増され、西尾氏は横須賀に3万5000石の所領を領することとなる。そして、西尾氏が8代支配することで、明治時代を迎えたが、徳川家達が東海地方に藩主として入ってきたため、慶応4年(1868年)8月に第8代藩主・西尾忠篤は新政府の命令で安房花房藩に移封となり、横須賀藩は廃藩となった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 大須賀(榊原・松平)(おおすが(さかきばら・まつだいら))家
6万石(譜代)
[編集] 松平(能見)(まつだいら(のみ))家
2万6000石(譜代)
[編集] 井上(いのうえ)家
5万2000石(譜代)
[編集] 本多(ほんだ)家
5万石(譜代)
[編集] 西尾(にしお)家
2万5000石→3万5000石(譜代)
- 忠成(ただなり)従五位下。隠岐守。
- 忠尚(ただなお)従四位下。隠岐守。侍従。
- 忠需(ただみつ)従四位下。主水正。
- 忠移(ただゆき)従五位下。隠岐守。
- 忠善(ただよし)従五位下。隠岐守。
- 忠固(ただたか)従五位下。隠岐守。
- 忠受(たださか)従五位下。隠岐守。
- 忠篤(ただあつ)隠岐守。