浅利純子
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浅利 純子(あさり じゅんこ、現姓・高橋純子。1969年(昭和44年)9月22日 - )は、1990年代に活躍した秋田県鹿角市出身の元女子マラソン選手。
女子マラソンで日本人初の世界チャンピオン、アトランタオリンピック代表。現役時はダイハツ所属。身長164cm。
[編集] 略歴
- 秋田県立花輪高等学校卒業。
- 1991年1月 - 大阪国際女子マラソン12位。2時間37分1秒(初マラソン。優勝はカトリン・ドーレ、2位は当時日本最高記録達成の有森裕子)。レース前半で先頭から遅れ、優勝争いには殆ど絡めずじまいに終わった。
- 1992年1月 - 大阪国際女子マラソン6位。2時間28分57秒。(優勝はチームメイトで当時日本最高記録達成の小鴨由水、同年のバルセロナオリンピック代表となった。2位は松野明美)。浅利は終盤36km付近までは先頭グループにいたが、その後小鴨のペースについていけずに後退。そして松野、山本佳子等にも抜かれてしまい、バルセロナ五輪代表を逃した。大阪国際では小鴨は本来浅利のペースメーカー役だったが、このレースの後は逆に浅利がオリンピック代表となった小鴨の練習相手を務めることになった。
- 1992年8月 - 北海道マラソン2位。2時間32分14秒(優勝はオルガ・アペル)。33Km辺りまでアペルと優勝争いを繰り広げたものの、その後脱落。念願の初優勝は次のレースへ持ち越しとなった。
- 1993年1月 - 大阪国際女子マラソン初優勝。2時間26分26秒(2位の安部友恵とは1秒差)。当時日本最高タイ記録。レース終盤の長居陸上競技場の手前まで安部とデッドヒートを繰り広げられたが、安部が競技場へ入るコースを間違えてしまうミスにより、タナボタで浅利が先頭に立つ。そしてそのままゴールとなった。
- 1993年8月 - シュツットガルト世界陸上女子マラソン優勝。2時間30分3秒(3位は安部友恵、松野明美11位)。当時日本女子陸上選手としての金メダル獲得は、オリンピックも含めて初の快挙である。後半の36Km過ぎで、一度は先頭に立ったポルトガルのマヌエラ・マシャドを逆転してのゴールインとなった。
- 1994年1月 - 大阪国際女子マラソン3位。2時間26分10秒(優勝は1秒差で当時日本最高記録達成の安部友恵、2位は安部と同タイムの藤村信子)。レース最後の長居陸上競技場(第二)へは浅利、安部、藤村の三人がほぼ同時に入ったが、ゴールライン100m手前のホームストレートで安部がラストスパートをかけると浅利はつけず、そして藤村にもわずかに追い越されてしまった。
- 1995年11月 - 東京国際女子マラソン優勝。2時間28分46秒(2位のワレンティナ・エゴロワとは2秒差)。終盤38Km付近で他二人の選手(吉田直美、後藤郁代)と交錯し、転倒するというハプニングに見舞われた。一時は先頭を走る原万里子に大きく差をつけられたが、競技場へ入るとゴール直前で浅利が逆転、アクシデントを乗り越えての優勝を果たした。この成績により、翌年のアトランタオリンピック女子マラソン代表に選出された。
- 1996年7月 - アトランタ五輪女子マラソン17位。2時間34分31秒(優勝はファツマ・ロバ、2位はワレンティナ・エゴロワ、3位は有森裕子。真木和は12位)。浅利は金メダル有力候補だったが、レース序盤で裸足で履いたシューズが合わず靴擦れを起こし、足裏の皮が裂けて出血するという思わぬトラブルに見舞われた。その影響で優勝争いからは完全に脱落しての敗北となってしまった。
- 1997年4月 - ボストンマラソン6位。2時間31分12秒(優勝はファツマ・ロバ)。アトランタ五輪の惨敗から復活をかけたレースで、満足のいく結果では無かったが、次に繋がるレースが出来たとゴール後浅利は笑顔を見せた。
- 1998年4月 - ロッテルダムマラソン2位。2時間26分11秒(2秒差で自己ベスト更新を逃す。優勝は当時世界最高記録達成のテグラ・ロルーペ)。途中までは当時の日本最高記録(高橋尚子の2:25:48)を上回るペースだったが、後半ペースダウンして結局日本最高も、そして自己最高もわずかに及ばなかった。
- 1998年11月 - 東京国際女子マラソン優勝。2時間28分29秒(ゴール直前で市橋有里をかわす。市橋は同タイムながら2位)。38Km過ぎから市橋とのデッドヒートとなる。そのまま同時二人で競技場に入った後の残りわずか100mで、市橋が先に仕掛けてリードを奪ったが、残り50mで浅利が追いつき逆転してゴール。僅差の勝利だったが、浅利自身のフルマラソン優勝はこれが最後となった。
- 1999年8月 - セビリア世界陸上女子マラソン16位。2時間31分39秒(優勝はチョン・ソンオク、2位は市橋有里。小幡佳代子8位、市河麻由美17位、高橋尚子欠場)。国別対抗上位3名のタイム合計では日本が団体優勝。浅利はレース前に練習過多による足の故障を抱えての出走となり、レース中盤までのスローペースにはなんとかついたものの、後半ペースアップとなると、浅利はついていけずに後退してしまった。
- 2000年1月 - 大阪国際女子マラソン、15Km過ぎの地点で途中棄権(優勝はリディア・シモン、2位は弘山晴美)。スタートから16分台のハイペースについたものの、5Km過ぎで浅利は先頭集団から脱落。太股がつるというアクシデントでその後ズルズル遅れ、15km地点を過ぎて鈴木従道監督を発見した浅利は、「足が痛い」と悔し泣きしながらコースを外れ走るのを辞めてしまった。浅利自身初めてのフルマラソンでのリタイアとなり、シドニーオリンピックへの出場も絶たれる形となった。
- 2001年1月 - 現役引退を表明。昨年の大阪のレースが最後のマラソンとなった。その後ダイハツ陸上部のコーチへ就任となる。
- 2005年10月 -鈴木監督が60歳の定年退職を機に、浅利自身もダイハツを退社となる。
- 2006年3月- チームミズノアスレティックに加入。同年結婚し、翌2007年には出産予定。
[編集] 自己ベスト
- 2時間26分10秒
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