温井景隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
温井 景隆(ぬくい かげたか、天文元年(1532年) - 天正10年6月24日(1582年7月13日))は畠山氏の家臣。
1555年、祖父・温井総貞が主君・畠山義続によって討たれると、父・温井続宗とともに加賀へ逃亡した。1566年、義続とその子・畠山義綱が重臣たちによって追放されると帰参して、再び重臣となる。
遊佐続光と仲が良く、1574年の主君・畠山義慶の死は、続光とこの景隆が共謀した暗殺説がある。1577年、上杉謙信率いる大軍に七尾城を取り囲まれると、続光と協力して親織田派の長続連一派を殺害し、謙信に内応した。しかし謙信の死後、織田軍の侵攻に遭って能登を追われる。
1582年、本能寺の変により織田信長が横死を遂げると、復権を目指して上杉景勝の支援のもと、能登へ侵攻したが、佐久間盛政や前田利家の反撃に遭って殺された。