湊騒動
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湊騒動(みなとそうどう)とは、出羽国湊城を主戦場として日本の戦国時代に起こった一連の合戦である。一次史料に乏しく軍記物などの諸史料に頼るしかないため詳細は不明であるが、郷土史家等による近年の説では湊騒動は3度起こり、これらが混同され記録された形跡が見られるという。特に3度目の湊騒動を「湊合戦」とも呼ぶ。
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[編集] 背景
出羽の北部を支配していた安東氏は、戦国時代を通じて檜山・湊両家に分かれ対立していたが、伝えられているところによれば、檜山の下国舜季が湊の湊堯季(定季)の娘を妻に迎えることで和解し、継嗣の無かった堯季は外孫の茂季を檜山家から養子に迎えた。しかし茂季は実質的に兄下国愛季の傀儡に過ぎなかったと言われている。また一説には堯季死後、愛季が湊家も併せ領有したともいう。
従来、湊家は雄物川上流域の大名、国人による湊における交易を、低率の津料を支払うことを条件に認めてきたが、檜山家はこの交易を統制することにより近隣国人衆への支配を強化しようとしたため、交易統制に対し国人層が反発し、3度にわたる湊騒動が起こったとする説がある。
[編集] 第一次
1544年(天文13年)、湊定季の養子となった友季が叔父の腋本脩季と組んで檜山家と闘ったと推測されているが詳細は不明。この結果、友季は早世、定季は次いで舜季二男で外孫の春季を友季と改名させ養子に迎え第八代当主とし自らは出家するものの、これも夭折したため還俗し、堯季と改名したうえで第九代当主となった。
[編集] 第二次
1570年(元亀元年)、茂季が兄愛季の意を受け、豊島領内との交易を制限したことから豊島玄蕃ら湊城近隣の国人らが下刈右京、川尻中務、小野寺氏、戸沢氏らと同調して挙兵した。
騒動は2年に及び、推古山において激戦が行われたが、愛季の救援もあり乱は鎮圧。玄蕃は舅である由利地方の仁賀保氏を頼り落ち延びた。一説にはこの事件後に、秋田郡一帯は愛季の支配下となり、茂季は豊島城に移されたとも伝えられる。
愛季はまた、豊島氏に同調した大宝寺氏の由利地方への進出に対抗し、大宝寺義氏の自壊にも助けられ由利地方を勢力下に置いた。更に比内地方の浅利勝頼を、蠣崎慶広を使い謀殺。出羽北部の沿岸部をほぼ統一し、内陸部に進出し雄物川流域の支配権を巡り戸沢氏との戦いに向かった。
[編集] 第三次
愛季は戦国大名としての地位を確立しつつあったが、1587年(天正15年)、角館城主戸沢盛安と戦った際、仙北淀川の陣中で病死し、嫡子の実季が後を継ぐと、茂季の子である豊島通季(道季・高季とも)は南部氏、小野寺氏と連絡し、戸沢氏と手を結んで1589年(天正17年)2月反乱を起こした。史料によっては1588年(天正16年)とするものもある。
豊島勢は一時湊城を奪い秋田郡一帯の国人衆を組織し、実季を檜山城に籠城させるなど窮地に追い込んだが、南部氏の比内侵攻に際し一旦和睦となった。この隙に実季方に由利十二頭が参戦し湊城を攻める動きを見せたことから、豊島勢は挟み撃ちに会い壊滅、湊城は再び実季の手に落ちた。豊島勢の残党は「寺内の合戦」に勝利し一矢報いたものの通季が敗走したことから四散した。
その後、戸沢・小野寺連合軍との「峰の山合戦」を経て和議がまとまり、実季は秋田郡域を確固とした支配下に置くこととなった。通季は南部氏のもとへ逃れてその家臣となった。
この戦いは惣無事令違反と豊臣秀吉に見なされたが、実季の中央工作によって出羽秋田五万二千石の安堵を認められた。また、没収された領地のうち二万五千石は太閤蔵入地とされ、実季はその代官となった。
[編集] 参考文献
- 塩谷順耳ほか 『新版県史 秋田県の歴史』 山川出版社、2001年、ISBN 4634320509
- 渋谷鉄五郎 『秋田「安東氏」研究ノート』 無明舎出版、1988年
- 森山嘉蔵 『安東氏―下国家400年ものがたり』 無明舎出版、2006年
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