瑞龍寺 (高岡市)
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瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、富山県高岡市にある曹洞宗の仏教寺院。山号を高岡山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は前田利常、開山(初代住職)は広山恕陽(こうざんじょよう)である。山門、仏殿、法堂の3棟は近世禅宗様建築の代表作として1997年国宝に指定された。これは富山県下における初の国宝指定であった。
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[編集] 歴史
加賀藩2代藩主前田利長(1562-1614)が、織田信長・信忠らの追善のため、文禄3年(1594年)金沢に創建した宝円寺(後に法円寺と改称)が瑞龍寺の前身である。利長は慶長10年(1605年)、44歳の若さで家督を異母弟の利常(1594-1658)に譲り、自らは隠居した。利長には実子がなかったため、30歳以上年下の異母弟で、当時まだ少年であった利常を養嗣子としたのである。隠居後の利長は金沢から富山に移転するが、富山城の炎上を機に高岡に移り、ここに新たに高岡城を築いた。前述の法円寺は、利長死去の前年である慶長18年(1613年)、高岡に移された。
前田利長は慶長19年(1614年)没し、後を継いだ3代藩主前田利常は、法円寺を利長の菩提寺とし、利長の法名瑞龍院に因んで寺名を「瑞龍院」と改めた(後、さらに「瑞龍寺」に改称)。
前田利常は承応3年(1654年)から瑞龍院の伽藍の本格的整備に着手した。(伽藍整備の開始は、利長の三十三回忌にあたる正保3年(1646年)からとする説もある。)建築工事は、加賀藩お抱えの大工頭・山上善右衛門嘉広(代々「善右衛門」を名乗る)が棟梁となって進められた。山門、仏殿、法堂(はっとう)が一直線に並び、左右に回廊をめぐらして諸堂を対称的に配置する伽藍配置は中国の径山万寿寺にならったものといい、伽藍整備が完成したのは利長の五十回忌にあたる寛文3年(1663年)頃であった。
瑞龍寺は近世を通じて前田家の手厚い保護を受け、寺領三百石を有する大寺であった。延享3年(1746年)の火災で山門を含む伽藍の前半部分が焼失し、山門が再建されたのはそれから約70年後の文政3年(1820年)であった。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 山門-延享3年(1746年)の火災で焼失後、長らく仮の門が建てられていた。現存する門は文政元年(1818年)に上棟、同3年(1820年)に竣工したものである。二重門(2階建てで、上層と下層の境にも軒の出をつくるもの)で、屋根は入母屋造、杮(こけら)葺き。二重門では下層の屋根を上層よりも大きくつくることが多いが、この門では上層と下層の屋根の出があまり変わらない。これは積雪時に上層屋根から落下した雪が下層屋根に当たるのを防ぐためといわれる。下層には金剛力士(仁王)像を安置、上層内部には釈迦如来と十六羅漢像を安置する。
- 仏殿-棟札により万治2年(1659年)の竣工とわかる。入母屋造、一重裳階(もこし)付きで、屋根は当初杮葺きであったが、現状は鉛瓦葺きとする。鉛製の瓦を用いる理由は、俗説では非常時に鉄砲の弾にするためともいうが、実際は冬季の積雪対策のためだという。内部を土間床とし、天井の構造材を見せて装飾としている点、組物(柱上にあり、軒や天井を支える構造材)を密に配する点などは禅宗様建築の特色であり、柱、扉、窓などの細部様式も典型的な禅宗様になる。
- 法堂(はっとう)-入母屋造、銅板葺き。墨書から明暦元年(1655年)の建立とわかる。内部を土間床とする仏殿に対し、法堂は畳敷きで、横2列、縦3列の6部屋を配する方丈形式の間取りである。手前の3部屋の前面には広縁(板間)があり、その前面は左右に細長い土間廊下とする。こうした平面形式は曹洞宗建築の特色を示す。
[編集] 重要文化財
- 総門
- 禅堂
- 大茶堂
- 高廊下
- 廊下(3棟)
- 後陽成院宸翰消息
上記の国指定文化財の他、絵画、墨蹟等の文化財を多数有する。