百武賢兼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
百武 賢兼(ひゃくたけ ともかね、天文7年(1538年) - 天正12年3月24日(1584年5月4日))は龍造寺氏の家臣。
龍造寺四天王のひとりで、百人並みの武勇を有していると龍造寺隆信から賞されて、百武の苗字を与えられた。
龍造寺軍の中核として、その武勇で各地に転戦し、武功を挙げている。
百武賢兼は、主君の龍造寺隆信が柳川の蒲池鎮漣を謀殺し、その一族を冷酷に皆殺しにしたことには同意出来ず、柳川の戦いには、出陣を促す妻に対して「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と答え、しきりに涙を流し、ついに最後まで出陣しなかった。
賢兼の感慨通りに、龍造寺隆信の蒲池氏に対する所業は、田尻鑑種や黒木家永など筑後国の諸将の離反を招き、龍造寺氏没落の起因ともなる。
賢兼は、1584年、島津氏(沖田畷の戦い)との戦いで討死した。
その由来から百武姓の始祖と思われ、ガタルカナル戦で日本陸軍の指揮を執った百武晴吉中将や、彗星捜索家百武裕司氏らの先祖である可能性が高い。