織田信重
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織田 信重(おだ のぶしげ、生没年不詳)は、織田信長の弟・織田信包の長男。信長の甥に当たる。通称は三十郎。官位は従五位下民部大輔。江戸時代の大名で、伊勢林藩主。
信長の死後、父信包と共に羽柴秀吉に従い、1584年の小牧・長久手の戦いに参加した。1587年の九州征伐にも従軍した。1594年の伏見城築城にも加わっている。1594年9月の父信包の改易にともなって、伊勢林藩主1万石を与えられたという。
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与したため、戦後に所領を安堵された。1614年の父信包の死去にともなって、弟織田信則が遺領を相続したことに不満を抱いて、大坂の陣後に幕府に対して異議を申し立てた。同年閏6月23日調査の結果、幕府は信則の相続を遺言によるものとの判断を信重に伝えた。同年閏6月29日幕府は信重の異議申し立てを「僻事」(『寛政重修諸家譜』)として所領を没収した。没年不詳。法名は渓林院融雪魯白。
正室は津川義近の娘。四男二女あり。三男津田次郎左衛門(長相)は、熊本藩細川家に召し出されて、その子孫も代々同家に仕えた。
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