苻宏
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苻宏(ふこう、生年不詳-405年)は、五胡十六国時代の前秦の皇族。第3代皇帝の苻堅の少子(年少の子)である。兄は、苻丕(哀平帝)・苻暉(平原公)・苻睿(広平公、雍州刺史)ら。弟に苻琳(河間公)・苻詵(中山公)がいる。彼は苻堅の多くの子の中でも特に愛されて皇太子に定められて、末弟の苻詵と共に父に溺愛されたという。
[編集] 生涯
後に父が淝水の戦いで父帝が東晋に大敗北を喫し、鮮卑族の慕容垂に支えられ長安に辛うじて帰還した。それも束の間に、今度は慕容沖(慕容垂の従孫)と後秦の羌族の姚萇が相次いで謀反を起こしたために、385年の秋7月、父・苻堅一家は五將山で姚萇に捕らえられた。父・苻堅は、姚萇によって強引に禅譲を迫られたが、断固として拒絶したために新平県の仏寺で末弟の苻詵と共に処刑された。
一方、太子の苻宏は東晋に備えて、南下したともいわれる。庶長兄の苻丕と従父の苻登・苻崇父子が殺害されても、彼は前秦の残党を率いて前秦再興に全てを注いだという。その後、苻宏は将軍の桓玄と互角に戦っていたようである。404年夏に、その桓玄が楚王と称して、天下に号令をかけるも劉裕によって殺害された。苻宏も劉裕の武将である檀祗の討伐を受けて、籠城したものの翌年になって居城は陥落して、苻宏は檀祗の軍勢に惨殺されたようである。こうして前秦は残党による抵抗は終焉し、完全に滅亡したという。
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