西方藩
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西方藩(にしかたはん)は、下野国(現在の栃木県上都賀郡西方村大字本城)に存在した藩。
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[編集] 藩史
藩祖は戦国時代の武将である藤田信吉。信吉は畠山重忠の子孫と言われ、後北条氏や武田勝頼の家臣として仕えた。武田氏が織田信長によって滅ぼされると、越後国の上杉景勝の家臣となった。信吉は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い直前、景勝が石田三成の愚行に共謀して挙兵しようとするのを懸命に諌め、大坂にまで上坂して徳川家康に陳弁するなど、景勝の無謀な行為を懸命に食い止めようとした。ところが上杉氏の実権を牛耳っていた直江兼続が、そのような信吉の存在を疎ましく思い、信吉が上杉氏に対して叛意ありと讒訴した。勿論、信吉にはそのような叛意は微塵も無かったが、上杉氏家中の大半が景勝や兼続の愚行(挙兵)に賛意を示したため、孤立してしまった信吉は上杉氏から去ることを余儀なくされ、徳川家康の家臣となった。そして徳川方として関ヶ原を働き、戦後に下野西方1万5000石を与えられ、大名として諸侯に列したため、ここに西方藩が立藩した。
大坂の陣においても信吉は徳川方として働いたが、戦傷を負った上、榊原康勝の家臣から言いがかりをつけられてしまう。しかし家康は信吉をかばったらしい。だが、信吉の戦傷は意外と重傷だったらしく、元和2年(1616年)7月14日、奈良井で59歳の生涯を閉じた。信吉には嗣子が無く、西方藩は廃藩となったのである。
信吉の墓は、曹洞宗那智山実相寺にある。信吉は上杉氏を裏切った奸臣と言われているが、彼は上杉氏が三成と組んで家康に挑むことは無謀だと上杉氏で唯一、先を読んでいた名臣で、上杉氏存続のために最後まで尽くしていた。むしろ彼を上杉氏から追い出して三成の愚行に共謀した直江兼続こそ、奸臣と言えるであろう。
[編集] 歴代藩主
[編集] 藤田(ふじた)家
外様。1万5000石。
- 藤田信吉(のぶよし)