謝安
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
謝 安(しゃ あん、Xiè Ān、320年 - 385年)は中国東晋の政治家。字は安石。陳郡陽夏(現河南省)の出身。桓温の簒奪の阻止、淝水の戦いの戦勝など東晋の危機を幾度と無く救った。謝尚の子・謝石の兄。
名族・陽夏謝氏に生まれ、大いに将来を期待されていたが、若い頃は出仕せずに王羲之と交流を深め、清談に耽った。360年、四十一歳で初めて仕官し、桓温の司馬となった。
当時の桓温の勢力は東晋を覆い、桓温は簒奪の野望を見せていた。しかしこれに対して謝安は強硬に反対し、結果桓温の寿命が先に尽きて東晋は命脈を保つことになる。
383年、華北を統一した前秦の苻堅は中国の統一を目指して百万と号する大軍を南下させてきた。謝安は朝廷より征討大都督に任ぜられ、弟の謝石・甥の謝玄らに軍を預けてこれを大破した。戦いが行われていた頃、謝安は落ち着いているとの振りを周囲に見せるために、客と囲碁を打っていた。対局中に前線からの報告がやって来て、客がどうなったかを聞いた所、「小僧たちが賊を破った。」とだけ特に喜びを見せなかった。客が帰った後、それまでの平然とした振りを捨てて、喜んで小躍りした。そのときに下駄の歯をぶつけて折ってしまったがそれに気が付かなかったと言う。
この功績により、陽夏謝氏は琅邪王氏と同格の最高の家格とされ、謝安は太保となった。
更に謝安はこの勢いを駆って北伐を計画していたが、皇族の権力者司馬道子に止められる。司馬道子の反対は謝安の功績が大きくなりすぎたことを警戒してのことであり、謝安は中央を追い出されて広陵歩丘に鎮した。385年、病死する。死後、太傅の官と廬陵郡公が追贈された。
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | 中国史の人物 | 魏晋南北朝時代の人物 | 320年生 | 385年没