謝玄
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謝 玄(しゃ げん、Xie Xuan、343年 - 388年)は、中国東晋の将軍。字は幼度。宰相・謝安の甥。謝氏の本貫は、陳郡陽夏(現河南省太康県)。
孝武帝の時代、前秦の苻堅が南下して国境を脅かしていた。謝玄は、叔父・謝安から江北諸軍事・兗州刺史を委任され、太元元年(378年)には広陵から出陣、淮水の南で前秦の軍を破る功績を挙げた。太元8年(383年)に苻堅は、弟の苻融・苻方・梁成・慕容?・慕容垂らに25万の軍を預けて先鋒とし、自ら大軍(歩兵60万、騎兵27万)を率いて再び南下する。謝安は弟の謝石を征討大都督、謝玄を前鋒都督とし、また謝玄の子・謝琰も従軍させ、水軍8万の兵を与えて出陣させ、寿陽の東に布陣。この際、謝玄は北方(中原)からの避難民を再編して「北府軍」と称して率いていた。謝家を中心とする東晋軍は、洛澗を攻撃、前秦軍の先鋒・梁成を討った。
続いて東晋軍は淝水に進み、前秦軍も苻堅の本隊が寿春に入る。両軍は大河を挟んで対峙。両軍が激突するに及び、謝玄・謝琰父子らが率いる東晋軍7万は前秦軍15万を撃破、苻融を戦死させる大勝利を得る(淝水の戦い)。苻堅は途中で慕容垂により保護されて、長安に逃走した。
その後、謝玄は山東・河南などへもたびたび出兵するが、385年叔父の謝安の失脚、死後は建康朝廷との意思疎通も欠いたため、成功しなかった。388年、病死。孫に詩人として有名な謝霊運がいる。
[編集] 伝記史料
- 「晋書」卷七十九 列伝第四十九
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