賈南風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
賈 南風(か なんぷう 256年 - 300年)は中国西晋、恵帝の皇后、政治家である。賈皇后。平陽の人。父は賈充。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 皇后となるまで
西晋の武帝司馬炎は、皇太子の司馬衷(のちの恵帝)の后として、衛瓘の娘を迎えようとした。衛瓘の娘は子供を期待でき、賢く色白の美人だが、賈南風は子供を期待できず、陰険で色黒の醜女というのである。しかし、賈充派の馮紞・荀勗らが賈南風を后にするよう働きかけた。さらに、楊皇后(楊芷)も賈充が晋王朝成立の功臣であることから、賈南風を勧めた。
賈南風は残虐な性格で、司馬衷は大いに恐れた。また、嫉妬のあまり手ずから数人を殺した。さらに、身重の側室を胎児ごと殺したこともあった。激怒した司馬炎は賈南風を金墉城に幽閉し、離婚させようとした。しかし、楊皇后が再び賈充の功績を理由に取りなし、外戚の楊珧や馮紞・荀勗らも取りなしたので、司馬炎はようやく思いとどまった。しかし、賈南風は楊皇后が自分を助けてくれたことを知らず、かえって訓戒を垂れる彼女を逆恨みしたという。
司馬衷は暗愚であり、和嶠や衛瓘らが暗に廃立を勧めたので、司馬炎は司馬衷に政治の文書を試験させた。賈南風は夫にカンニングさせ、司馬炎は回答に満足したため、この試験を切り抜けた。賈充は衛瓘を大変恨み、「衛瓘の老いぼれめ、いつかお前の一家を滅ぼしてやる」と誓ったという。
290年、武帝・司馬炎が死去すると、恵帝が即位し、賈南風は皇后となった。
[編集] 闇主と虐后
恵帝が即位すると、外戚の楊駿(楊皇后の父で、楊珧の兄)が実権を握った。賈皇后は楊駿を排除して政治の実権を握ろうと、孟観・李肇・宦官の董猛らと共謀した。はじめは皇室の重鎮である汝南王・司馬亮を誘ったが断られ、続いて楚王・司馬瑋を誘い入れた。291年3月、賈皇后らはクーデターを起こし、楊駿やその一党を誅殺した。さらに、皇太后となっていた楊芷を餓死させた。妖巫を信じていた賈皇后は、楊太后があの世で先帝(司馬炎)に冤罪を訴えないよう、顔に覆いをかぶせ、お札や薬物を加えた上で葬らせたという。
楊駿一党が粛清されると、司馬亮と衛瓘が代わって実権を握った。二人は司馬瑋の兵権を奪い、封国に出そうとしたため、対抗して賈皇后に接近した。賈皇后は衛瓘の娘がかつての自分のライバルであり、また邪魔な二人を殺そうと思った。そこで6月、恵帝に司馬亮・衛瓘を免官させるよう詔勅を出させた。司馬瑋がこれを利用して二人を殺すと、賈皇后は張華の進言で司馬瑋を詔勅を騙った罪で誅殺した。こうして、賈皇后と賈謐(妹の子)・郭彰ら賈氏一族(郭彰は賈皇后の従舅)の天下となった。
[編集] 西晋崩壊の予兆
賈皇后は4人の女子を生んだが、男子は生まれなかった。皇太子司馬遹は商人の娘である謝才人(才人は女官の位)の子であり、賈皇后の子ではなかった。賈皇后は韓寿(賈謐の実父で妹婿)の子である韓慰祖を密かに宮中で養わせ、司馬遹に代えようとした。
299年、冬12月に賈皇后は司馬遹に謀反の罪を着せて殺そうとした。朝臣のほとんどが沈黙する中、張華と裴頠の二人が司馬遹を弁護したため、賈皇后は司馬遹を廃嫡させ、庶人に落とすことで妥協した。
司馬雅らは司馬遹を復位させようと、斉王・司馬冏と趙王・司馬倫、その側近の孫秀らと共謀した。しかし、司馬倫は司馬遹との関係がよくなかったため、敢えて賈皇后に計画を察知させた。300年、春3月に賈皇后は太医令の程據に命じて、薬杵(やくしょ、薬を調合する棒)で前太子の司馬遹を殴殺させると、司馬雅らはやっと計画から降りた。翌月の夏4月3日、司馬冏・司馬倫らは予定通り挙兵。賈氏一族は皆殺しにされ、賈皇后は司馬冏に捕らえられた。9日、金屑酒(金粉入りの毒酒)による自殺をさせられた。
司馬倫以降、一族の権力闘争が続き、後に賈皇后によるクーデターも含めて八王の乱と呼ばれた。こうして、西晋は滅亡へと転がり落ちていった。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 中国史の人物 | 魏晋南北朝時代の人物 | 256年生 | 300年没 | 歴史関連のスタブ項目