酒井忠ます
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酒井 忠眦(さかい ただます、文化12年(1815年) - 明治9年(1876年)2月12日)は越前敦賀藩の第7代藩主。第6代藩主・酒井忠藎の子。正室は酒井忠方の娘。継室は永井尚佐の娘。子に忠経、娘(酒井忠道室)、娘(永井尚佐室)。官位は従五位下、右京亮。「ます」の字は田+比。
文化12年(1815年)6月生まれ。天保4年(1833年)、父の死去で家督を継ぎ、藩主となる。若年寄を三度も歴任した功績を認められて城主格に任じられた。幕末の動乱期の中では、元治元年(1864年)9月にイギリスやフランス、アメリカなどと交渉して下関条約を締結する功を挙げている。このように佐幕の立場を貫いたが、次第に近隣諸藩が官軍側に与し始めると、その立場に苦しむようになり、大政奉還直前の慶応3年(1867年)6月17日、子の酒井忠経に家督を譲って隠居した。
明治9年(1876年)2月12日、62歳で死去した。
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